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直線の生、始まりの点―『ひかりのまち』

ひかりのまち (サンデーGXコミックス)

ひかりのまち (サンデーGXコミックス)

点ではなく、直線としての生

宮台真司が「意味から強度へ」を掲げ、「今」を上手く生き延びる援交女子高生の生き方にスポットライトを当てたのは95年。『ひかりのまち』で生きる人々は、そういう生き方に似ていて、それより少し要求が厳しくなっているように思えた。
典型的なアッパークラス向けベッドタウン、「ひかりのまち」。母を失い、廃人同然の父と暮らし、人の自殺を手助けし見届ける「見届け屋」のタスク。ストーカーに襲われ傷のついた(とされる)「ハル子」。ハル子を襲った犯人で、「ひかりのまち」を取り戻すという目的のため金の亡者となるはぐれ者「芳一」。売れない漫画家、野津。彼らは生きる意味とか理由とかをなるべくキャンセルしつつ、「今」を刹那的にはやり過ごさない。というかやり過ごせない。過去と対峙し、未来にどうにかこうにか目を向ける。強度のある「点」としての生き方ではなく、かなり「直線」的な生き方のように見える。
点ではなく、直線。これが物語を通呈するテーマとなる。人が生きてけば、否応無しに生きてきた「軌跡」は残るし、何かをなして光り輝こうと思えば「助走」が必要になる。タスクが見届けてきた、飛び降り自殺もまたこの直線のアナロジーの下にある。
最終的に、抑圧的・閉塞的な「ひかりのまち」は、彼らが「直線」的な人生を営むための始点となる。「どこかに行く」ためにはまず出て行くための出発点が必要になる。芳一と一緒に暮らすサトシは、芳一の死と平行して、ボロい彼の家を守ろうとする。

今をやりすごすことは出来ない。人は直線的に生きざるを得ない。そしてそのために直線を引く出発点が必要になる。そういうことに耐えながら、生きるしかない。

流れ星、あるいは俯瞰視点の拒否

このマンガの良いところは、以上のような説教くさい「客観的」な読み方を、そのテーマに沿いながらも最後に拒否してくれるところだ。物語の冒頭と最後に出てくる流れ星は、上記のような直線的な生き方を象徴する。けれど、人々は流れ星を見ても「願い事」を三回唱えられない。流れ星が一瞬で通り過ぎて一瞬で消えてしまうからだ。

前世の記憶が繋がったままの子供、タイキがこう話す。
「でもいいんだ。やっぱそれが自然なのさ。いろんなことを忘れながら、いずれはみんな死んで……。」
「そしていつかは世界も終わって、全部が全部なかったことになるんだから。」

タスクはこう答える。
「つまんねーよ、その話。」
「そいつは宇宙の王様か? そういう諦め方した時点で、そいつは確かに終わったよ。」
「だって考えればやれること、まだたくさん残ってるハズじゃんか。」

人の生き方は直線的で、始まりがあっていつか終わってしまう、そういうものなのだ、という俯瞰的な始点からの説教に落とし込んでしまうと、人の人生などあたかも流れ星のように見えてしまう。あっというまに通り過ぎて、あっという間に消える、流れ星。そこに意味はこめられない。けれどそもそもそういう風に人生をカミサマ視点で見てしまうことが、欺瞞なのだ。自分も含め、人の人生を流れ星にしてしまう権利は、誰にもない。過去はついてくるし、未来はあるけれど、マクロな視点から諦めを付けるのではなく、とりあえず目の前の今を明日へと繋げていくこと。そういう生き方が出来るはず。タスクが「見届け」て飛び降りていった人々は、一瞬で通り過ぎて一瞬で消える。欺瞞に満ちた俯瞰視点を取り入れた結果、自分の人生をまさに流れ星にしてしまった人である。

なので僕がこのように長々と登場人物たちの生を文字に起こしてしまうこともまた、非常に野暮である。野暮だけれど、それは措きつつ書きたいと思うくらい、良いマンガだった。