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絶倫ファクトリー

生産性が高い

消費者は主体たりうるのか?

先入観と効率性

昨日のエントリは、一見するともしかしたら先入観を持つことに肯定的な内容と取られるかもしれない。ただそうではなく、先入観とか固定概念といったものを、脊髄反射的な評価でもって語るべきではないということ、時に先入観は効率性によって正当化されることがある、ということを言いたかった。
ただこの「効率性」というのがやっかいで、先入観が効率性で肯定されるには、その文脈でそもそも「効率性」を持ち出すことが許容されている必要がある。だから野村監督は効率性で計れないプロ野球の世界の文脈でもって先入観を否定したし、効率性を求めなきゃやってらんないような状況では、やっぱりそれは肯定されるのだろう。

ちなみにコメント欄で一部述べられていた「友人関係」についてはどうともいいがたい気がする。友達を作る際に果たして効率性が重視されるのか。重視されるほど他人との接触機会が多ければそれはそれでリターンもあるだろうが、普通はそんなに新規の接触機会は多くない。大学の入試担当者や企業の人事担当ではないのだから、そこまで効率性は重視される必要は無いだろう。

効率性を求める「消費者」的態度

そして、この「効率性」を重視する態度は、すなわち「消費者」的態度であるとも言えるだろう。コストに見合うベネフィットが来るかどうか。経済学が想定する「合理的な個人」なぞは、こうした効率性を優先する個人であると同時に、優秀な消費者でもある。ここでいう消費とは、払ったコストに対してベネフィットが短期的に、かつ確実に現れることである。ベネフィットが得られるかどうか分からないが、長期的な視野でもってそれを目指すことは消費ではなく「投資」である。*1

たまに聞く話で、最近の小学生が「勉強して何か得になるの?得になるんだったら勉強するよ」という態度が見られるという。別に最近の子供じゃ無くても前々からそんなことを言う輩はいた気がするが*2、こうした姿勢は「消費者的態度」であると言われる。時間に対して即物的なベネフィットを要求する態度である。ただ本来教育なんてものは、長期的な展望を持った「投資」であり、しかも子供が主体になって行う投資ではなく、大人が将来の社会に対して行う投資である。だから投資している側から見れば、少なくとも義務教育にいる間は、社会のインフラに「させられる」客体たる子供が「勉強して得になるのか」という主体的な台詞を吐く資格はないのだが、これは話がそれるのでおいておく。

消費者は主体的たりえるのか?

話が若干飛ぶが、「消費者」というのは、果たして「主体的」なのだろうか。モノを買うという狭義の「消費」に関して言えば、日本のように資本主義が高度に発展しかつサービスの良い国では、「買い手優位」という言葉があるように、消費者は主体的であろう。何を消費するかの選択権は消費する側にある。ただ、宮台真司が良く使うような「三択問題」の概念を用いれば、選択肢がいかに豊富であろうとも、その選択肢以外を選択することが許されていない(そしてそのことが自明でない)限りにおいて、消費する側は自由を制限されていると言えるかもしれない。多くの資本主義先進国では、消費者がより安くていい物を求めるという「効率性」に訴えて、企業に対して主体性を持っているように見えるかもしれない。ところが件のミートホープ事件では、実は裏で何をやってるのか消費者は全然知りようが無いという、「外部性の非自明性」によって主体性を奪われていたということが明らかになった。
ちなみに何でこんなことを言い出したのかというと、先日若者文化についての話でsaksytle氏のブログでこういう話を見たからだ。

若者文化というのは、結局のところ、大人たちの作ったものを若者が消費しているだけだ、という話になると、出てきやすいのが、大人たちに搾取されてるんじゃないか、という話だと思うのだけど、それはちょっと待とう、というのが今回の記事の主題。
自動車とかラジオとか、大人たちが作った大人たちと同じものを使っているのに、その使い方に差異がある。
それによって、自分たちを主張するのが、最初のカウンターカルチャーだ。
そうやって、他の世代との差異(例えば奇抜なファッションとか若者言葉)を生むのが、文化が生まれる、ということなのではないだろうか。
それを見つけて商売を始める大人は勿論いるが、そうやって大人が商売をしてくれるからこそ、若者の側も差異のゲームをやることができる。新しいモノを「作って」いるわけではないが、そこに何か今までとは異なる別の何かが生まれてはいる。
それは搾取とは違う気がするし、単なる子どもの遊び、というわけでもないんじゃないかと思うわけだ。
つまり、差異を積み上げていくことこそが、文化そのものではないだろうか、ということ。
http://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20070701/1183296431

このエントリでは、若者文化が「消費者⇔生産者」という図式に還元されて、消費者が搾取されているという論調に異を唱えている。若者文化は差異化ゲームであり、差異化ゲームが文化である。若者は搾取される消費者ではなく、差異化ゲームのプレイヤーである、と。経済性のレイヤーでなく文化のレイヤーで捉えよ、ということなのだと思う(違ったらごめんなさい)
ただゲームの中で主体性を持っているのは誰なのだろうか。ゲームの性質にもよるだろうが、普通に考えればプレイヤーだろう。だがプレイヤーにプレイフィールドを提供している者が実はゲームをコントロールしてるかもしれない。多分若者文化に限って言えば、そこまで若者は大人の思惑通りの動きをしてはいないのだろうけど。
そもそも別に主体性なんかいらないじゃん、と言ってしまえば確かにその通り。ただどういうレイヤーに移っても、参加する側とされる側の非対称性、外部性の見えづらさ、みたいのは存在するのだろうなと思う。sakstyle氏自身も、エントリの最後の方で「結論は出ない」と述べているし。

*1:だから、企業が新人を採用する際、即戦力的な要素を求めて効率的な採用をし、使えなかったらポイというのは実に人間を消費する態度だと思うのだが。

*2:例えば僕とか僕とか僕とか