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『1995年以後―次世代建築家の語る現代の都市と建築』レビュー

都市論 読書日記

2日のエントリを「前編」と銘打ってしまった以上、後編を書かねばならない。書かねばならないというか、実際書いていたのだが、不手際で7割くらい書いた文章をふっ飛ばしてしまい、塩漬けになっている。
たぶん近日中に今日の日付より前に設定した日記で現れると思うので、よろしくお願いします。

「表層」「深層」の関係をを具現化したデザイン

1995年以後~次世代建築家の語る建築

1995年以後~次世代建築家の語る建築

TRAJが行った32組の建築家・建築家ユニットのインタビュー集。
フリーペーパーの発行やイベント・Live Round About Journalの主催で知られる建築家・藤村龍至率いるTeam Round About Journalが今月20日に出版した本。LRJAのときもアナウンスがあったし、以前から欲しいと思っていたのでこうしてレビューを書くことが出来るのは非常に嬉しい。

まずデザインから。BuildingKのブログにも書いてあるが、この本は表紙が二重になっており、広げると一枚のフリーペーパーとなる。中身は『都市住宅』元編集長植田実氏へのインタビューである。

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また上手く写真が取れなかったので画像が無いのだが、この本はページ内のヘッダとフッタがページの右端で縦に直結しており、上から順に「その建築家の生年」「建築家名」「ページ数」という形で数字が降られている。上の方ほど包括的なデータであり、下の方ほどそのページ固有の情報になっていく。いずれも、編著者である藤村龍至の使うキーワード「表層」「深層」の関係性がシンプルかつ具体的に表現されている。

「1995年」が引き出す二つの補助線

普段建築畑の議論にはまったく疎い自分にとって、いっぺんにこれだけの建築家の言葉を吸収するのは、かなりショッキングなことであった。LRAJのときもそうだったが、単純に建築家の数が多いので、情報の層が分厚くなる。
本書のタイトルは「1995以後」となっている。この1995年という数字については巻頭で藤村氏が以下のように語っている。

「1995年」は、ご存知のように「windows95」が発売されてパソコンが普及し、「インターネット元年」と呼ばれるようにネットが急速に普及することによって、新たな情報インフラの可能性が見え始めた年である。それと同時に、阪神・淡路大震災オウム真理教が起こり、既存の都市インフラの脆弱性がはっきりとした年でもあった。ここでは、そのように都市のインフラの構成が変化し、情報化と郊外化が加速する2000年代の一連の変化の起点として「1995年」を位置付けている」(本書 p.02)

先に述べたとおり、本書は32組の建築家/ユニットへのインタビュー集であり、昨年出版された『1995年 未了の問題圏』のように1995年という数字に徹底してこだわり続けるわけではない。

1995年―未了の問題圏

1995年―未了の問題圏

阪神大震災の話題が出るのも、満田衛資、北川啓介へのインタビューくらいである。それでも、「情報化」「郊外化」という補助線を引くペンとして、1995年という数字を読んだ場合、様々なトピックがこの本から浮かんでくる。

「情報化」――主観性と客観性の狭間で

LRAJ、本書と普段目にしない数の建築家の言説に触れて感じたのは、建築家の持つ「素朴さ」と、その素朴さに対する自省的な眼差しの混在だった。いわゆる括弧つきの「クリエイター」と呼ばれる人々の仕事は、突き詰めると彼らのアウトプットの根拠が「美しさ」「直感」「感性」などのごく主観的な概念に収斂する事がままあるように思う。建築家という職業もまたそのご他聞には漏れない。だが建築という「メディア」の特性上、それが公共空間に与える影響は一介の消費財と比較してもあまりに大きい。にもかかわらず、非常に素朴に、人間の持つ「感性」なるものを根拠に図面を書き空間を裁断すること、その権力性・政治性に少しナイーヴすぎやしないか、と思うことも正直一度や二度ではなかった。
一方で、そうした素朴さに自覚的であるタイプの建築家もおり、彼らは特に方法論の客観性にこだわる。主観性をなるべく排除し、客観的なプロセスを提示することで、そうしたナイーヴさから逃れようとする。
けれどそうした理論的な合理性の追求と主観性の排除は、翻って建築家という主体の存在価値を揺るがす。『東京から考える』で東浩紀北田暁大が指摘した「建築家不要論」は、本書でも建築家の言葉として似たような問題意識が読み取れる。松川昌平はインタビューの中で以下のように述べている。

松川:僕たちは少なからず「形態は機能に従う」と教えられてきたけど、そういう根拠が全部剥奪されて、抜け殻になった建物は、その瞬間も建築なんだろうかとふと思ったときがあったんです。機能的なプログラムよりも物理的な建物のほうが寿命が長いんですよね。そのときに建築をつくる根拠はどこにあるんだろうかと考えたんですね。(本書 p.221)

ナイーヴな主観性からの脱却と、建築家が建築家として建築する根拠。この二律背反とも思えるテーマを、一種のシニカルさを挟み込みながら統合したのが、先月28日の東工大シンポでもキーワードとなった磯崎新の「切断」だとすると、松川や藤村龍至、田中浩也らの「アルゴリズム」へのこだわりは、そうした問題意識を持ちながらも、ポジティブさを持って乗り越えていくものとして捉えられるかもしれない。LRAJの総括討議はさながら「藤村龍至総叩き大会」と化していたが、そこで彼が批判されていたのはそのポジティブさ、「良いプロセス」の先に「良い建築」があることを絶対視していないか、ということだった*1
柄沢祐輔の「非ユークリッド幾何学CAD」*2というのも、またこうしたある種のポジティブさを内包しているように思える。
逆にそうした問題意識を共有しながらも、ポジとネガを反転させたのが、LRAJでも激論を交わした勝矢武之だろう。彼は「批判的工学主義」の掲げるプロセスのオープンネスに対し、「実際に立てられた建物からはそのプロセスが参照できるわけではない」と指摘し、建築に関する意思決定の政治的な正しさ(ポリティカルコレクトネス)以上のものを引き出すのは難しいのでは、と述べている。彼らは本書*3でもLRAJでも激論を繰り広げるが、勝矢の問題意識は藤村のそれとかなり近似のように思われる。いずれも商業主義が建築工学をのっとることによって、建築家なるものが消えていく未来を危惧している。そして勝矢からみれば、「批判的工学主義」の持つ形式合理性は、あまりに資本の側に寄り添いすぎているように見えるかもしれない。それを資本の論理にオーバードライブされること無く、自律性を保つための極小的な根源として勝矢はあえて「建築家の創造性」を持ち出しているように見える。
ただそのシニシズムというか最終的な開き直りが、本書では「より強力なポリティカルコレクトネスの発生装置としての建築家像」を呼び出している点は実に興味深い。

勝矢:資本主義とおりあいをつけられる、工学主義の調律者と違う建築家像をあえて提示するとすれば、スペースコンサルタントというか、ハードとソフトを一体で作り、空間のレベルでのライフスタイルを提案し、絶えずメンテナンスし書き換えていく人、という一つのビジョンがあるんじゃないか。(本書 p.305)

これぞまさに生と建築の持つ政治性を徹底してミクロナイズドした上で、資本主義をドライブしていく「政治家」の姿である。それが単なる隘路なのか、それともこの100年を見据えた議論なのか、答えは案外遠くないうちに出るのかもしれない。

「郊外化」――その引力とオルタナティブ

僕がこのブログに限らず何か文章で自分の考えを書くとき、およそ大体パターンというのは決まっているのだが、このエントリに限ってはそのパターンの5割以上が封じられている。社会学者・南後由和へのインタビューで、藤村龍至はこう強烈なパンチを繰り出している。

藤村:基本的にこれまでの社会学者は建築家に対して作家主義、作品主義を指摘して終わり、という感じでしたよね。「建築家のエゴを指摘してやった!」と喜んでいるだけです。(本書 p.364)

僕は別に学者でもなんでもないので、特に好きなことを書けばいいだけなのだが、そもそも彼の議論に惹かれたのはこうしたカウンターを建築家の側からしっかり出しているところだったので、なかなか難しい。
こうした注意書きを*4書いた上で述べるとすれば、「郊外化」というキーワードは「情報化」に比べて、より取り扱いが難しい言葉であると本書を読んで実感した。というのもインタビューアである藤村龍至を筆頭に、ここで建築家が使っている「郊外化」というものの具体像があまりはっきりしないのだ*5。アメリカ的なスプロールした住宅街か、それともニュータウンなのか、国道16号線的なチェーン店の集合体なのか。読んでみると「均質化」というのがその共通項な気がするが、彼の「批判的工学主義」は、むしろそうした郊外が「郊外」として括られる前に持つ、ローカルなパラメータをどれだけ精緻に読み込むか、という点に主眼を置いている(と僕は解釈している)。ならばそこにあるのは本来は均質的ではないにもかかわらず、均質かのように見られてしまっている、個別具体的な土地である。藤村龍至が「均質化した郊外を救いたい」と言ったとき、それは「郊外という名前で括られた、郊外ならざる土地をもっと最適な形で使いたい」という言葉に置き換えられる。一度建築家と社会学者を集めて「「郊外」という言葉をNGワードにした上でみんなで郊外について議論する」座談会をやってみたほうが良いと感じた。「郊外」という名前があまりにその指示内容を引っ張りすぎており、一度切り離した上での議論が必要なのではないか。
その上で、「中央アーキ」の上領大祐がインタビューの中で発したこの言葉は、「郊外」を語るとき重要だろう。

上領:タワーマンションというのは今しか通じないような言葉で本を作るようなものという気がします。僕らは長い時間の中でも、環境の変化と関係を持ち続けるよう、言葉を選んで設計しているという意志はあります。建築には本来、始まりがあって終わりがあります。始まる前の時間だってある。今の高層建築には始まりしか見えてこない。(本書 p.330)

均質化というキーワードで捉えたとき、これは郊外についての議論にもそっくり当てはまる言葉である。<時間>を動乗り越えるのか。今や有名な建築家の建築でさえ、経済的な理由でリセットされる以上、「作家性」は時間を乗り越える術にはならない。本書で平塚桂がつくばエクスプレス沿線のショッピングセンターを「巨大建築の中に都市の機能を全部入れてしまった方が、効率もいいし、新しいものが出来る」(p.251)と評しているが、こうなるともはや建築は建築として見られることを放棄し(事実TX沿線のショッピングセンターは建築として全体を俯瞰されることを拒否する大きさを誇っている)、批評家・福嶋亮大の言う「世代」の持つ差異を消費者に提供する、一種の消費財としての形態をとらざるを得ないのではないか、とまで考えてしまう。すなわち、時間を乗り越えることの拒否である。
意図せずそうなっている建築というのはあるだろうけれど、確信的にそれを狙うというのは、「郊外×建築」の方程式が導き出す解答の一つかもしれない。

その他

なんだかんだでまた「後出しじゃんけん」的なことを色々書いてしまった気もするが、このほかにも面白い話はたくさんあった。今月、違法花火によって燃えてしまった中国中央テレビの新ビルディングは、この本でインタビューイとして登場する白井宏昌がオランダのOMA事務所のメンバーとして加わったものだったとか、「設備意匠論」なんて言葉があるのか、とか。特にCCTVの火災は笑ってすむものではなく、プロジェクトに関わっていた人々の気持ちいかばかりかと思う。というかあのビルにコールハースが関わっていたなんて知らなかった。

あとやはり建築の話がメインなので、建築用語、特に建築界でしか使われていないテクニカルタームではなく、一般的な言葉に建築特有の意味が割り振られている場合、理解しずらかった。単なる専門用語ならググればいいだけなのだが、「ボリューム」「コア」といった言葉はなかなか既存のコンテクストから引き剥がして意味を理解するのが難しい。

このブログは同じ話題に何度もネチネチ食いつく癖があるので、今回だけでなく、また折に触れてこの圧倒的なボリュームを持つ本に言及していきたい。ドミニク・チェンの「タイプトレース」など、事例紹介だけでも面白そうなのは多くああったので。

*1:むしろ彼のやり方はそうした絶対性を回避し、「よりマシな」、相対的に良い建築を模索するものだと思うし、それすら放棄した時、やってくるのは粗悪な相対主義とナイーヴな主観性の復活だろう。

*2:これって名前だけ聞くととんでもないというか、かなりすっ飛んだことをやってそうなのだけど、あいにく詳細が理解できていない

*3:初出は2008年のRAJ

*4:主に自分に向けて

*5:何人かのインタビューイも「郊外っていうのが具体的にどういうのを指すのかいまいち分からない」という趣旨のことを述べていた。