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テロとしての『ゼロ年代の想像力』

ゼロ年代の想像力

ゼロ年代の想像力

今週の「自己啓発トークラジオ SURViVE」で『ゼロ年代の想像力』を取り上げるらしいので、メモ程度に。
本の内容そのものについては、id:sakstyleによるエントリが参考になる。またそのほかにもいろいろ議論が出ているのでそこらへんには触れない。代わりにこの本の及ぼした影響についてちらほら。

ゼロ年代の想像力』という本は、批評界における自爆テロだと思う。そもそも「批評界」なるものがどこにあるのか、と言われれば、それは結局この本の持つ暴力性によってようやく浮き彫りにされた、と言うと怒る方がいるだろうか。

テロとは暴力であるが、単なる宙吊りの暴力ではなく、外部に思想・宗教などのコンテクストを要求する暴力である。そしてそのコンテクストは、テロの対象となった事物の破滅を持ってして(一時的にせよ)完結する。主体が客体を暴力で持ってそのイデオロギーの中に引きずりこむ。911はイスラム原理主義というイデオロギーの中にアメリカを引きずりこんだ。それは、外部の人間からすればアメリカという国を見るための新しいリアリズムの誕生であった。

宇野常寛が放った『ゼロ年代の想像力』という爆弾は、一部の批評家と呼ばれていた人々の間に苛烈な反応をもたらした。彼らはその時点で宇野のコンテクストに引き込まれたのであり、外部に立つ我々からすればそれは批評というものを見るための新しいリアリズムが生まれた瞬間である。WTCに旅客機が突っ込んでようやく、隠蔽されていた「グローバリゼーションの枢軸としてのアメリカ」という姿が見えたように、『ゼロ年代の想像力』は「それまでの批評」の姿をようやく白日の下に晒した。

これは別に本書やその著者宇野常寛を称えるものでも、罵倒するものでもない。イデオロギーの善悪の問題、本の内容の良し悪しの問題は別のレイヤーにあるし、ここで論じている話とは関係が無い。ただこの本がどういう形にせよ一定のプレゼンスを持ったというその事実が唯一の判断材料となる。神々の闘争において量られるのは力の大小のみである。

ただこれは911のように異教徒への暴力ではなく同じ批評のフィールドで行われたものである以上、それは自らの立つ地面を崩落させる危険性もある。その結果は今後歴史が証明してくれるのだろう。

「スカイ・クロラ」「崖の上のポニョ」を見てきたよ。

**ネタバレ注意**



一緒に見に行った人たちが感想を書いているの(こことかここ)で、自分も書かなきゃいけない気がしてきた。ので書く。

スカイ・クロラ

原作を読んでないので、基本的に映画版のみの感想で話す。

とりあえず一緒に見に行ったid:sakstyleとは「ミツヤうぜえええええ」で結託した。あのネタバレは要らない。分かりやすいのはいいけれどやり方が冗長。もし考えなければならないとすれば、あのネタバレがなぜ必要だったのか、要らないはずなのになぜ挿入されていたのかだろう。

ちなみに上記のブログでは

例えば、レイタイプとの恋愛がセカイへの閉塞、アスカタイプとの恋愛がセカイからの脱出と、非常に単純な図式を仮定するとて、草薙がレイタイプ、三ツ矢がアスカタイプではあるだろうが

と書いてある。確かに記号的にはそう見えるのだけど、この映画の登場人物をエヴァのそれに例えるなら、僕はレイはカンナミなんじゃないかと思っている。
スカイ・クロラを見る前に、宮台真司がかつて唱えた「意味から強度へ」というフレーズを補助線にしながら、パトレイバーについてちょっと考えていた。パトレイバー(漫画版)では、意味を生きる野明が、強度でもって生きるバドに打ち勝つ。意味による連帯が強度ある人間のスタンドプレイに勝る話であったのだが、押井守監督の劇場版第二弾では、「意味による連帯なんかお前ら持ってないだろう、強度持てよ」というメッセージが突きつけられ、漫画版の構図は否定された。押井監督の作品は詳しくないのだが、彼はずっと「強度を持てよ」という話をしているようだ。しかしスカイ・クロラの登場人物は、「強度を持てよ」のメッセージ以前にすでにかなり強度バリバリのプレイヤーに見える。ここら辺、原作だともう少し違う描かれ方をしているらしいのだが、少なくとも映画だとそう見えた。

エヴァのアスカという人間は、ストーリーの途中までは強度ある人間であった。上の図式で行くとミツヤがレイであるというのは確かにそうだろう。物語の終盤、意味の薄さに耐えられずに強度を失うという点も含めて。
レイは、強度という点において最強の人間(?)であった。「私が死んでも代わりはいる」ことに自覚的であり、それを受け入れてるということは、意味に纏わり付く問題を全てクリアしている。いかなる物語が自分に代入されてもかまわない。ことごとく「透明」な人間。そしてスカイ・クロラにおいて、かような強度を持った「透明」な人間だったように見えたのは、カンナミだった。「私が死んでも代わりはいる」からこそ、彼は「ティーチャー」=意味の消失点へと突っ込んでいった。チルドレンたちが皆心に抱えながらも誰も口にしなかった呪祖を口にしながら。"I kill my father!"
シンジは、意味の追求と強度の調達の両方を追い求めた人間だったように思う。クサナギスイトもまた、「私が死んでも代わりはいる」という形で意味の問題をクリアし強度を調達することを否定した。クサナギミズキはその否定の証だった。代わりではない、自分。コピーではないコピー。
ただ登場後映画の中でミズキのプレゼンスが凋落していったのは、スイトがミズキを作ることで意味の問題をクリアし損ねたことを意味しているのだろう。結局ミズキはその後意味の薄さをどうにか耐えながら、時に暴走しかけながら、ぎりぎりのところで強度を確保していく。人の宿命にしばしノイズを混ぜながら。

まぁエヴァのキャラとどう対応しているかそのものはどうでもいいのだけれど、意味をキャンセルしながら強度を持つこと、その方法の類型が示されている作品ではあった。
あと最近、「強度ある人間の連帯可能性」みたいなことを考えていて、スカイ・クロラは「死という特異点に向かう態度」を媒介にすれば連帯できる、ということの分かりやすいモデルケースであったと思う。特攻隊はその先に「英霊」という物語=意味を作り出してそのシステムを維持したが、「ショーとしての戦争」はそのような手法を取れない。ゆえにキルドレの成長しないという特性が有効になるのだが、英霊もキルドレもなしにそのような強度の強い人間同士の連帯のシステムは作れるのだろうか。今ちょっと気になっていることの一つ。

崖の上のポニョ


いやー、人間てほんっと素晴らしいですねー!

以上。これ以上ないくらいの人間賛歌、母性賛歌であった。
しかし普通、文芸作品で「母性」を描くときってもうちょっと婉曲的に描くのではないのか。グランマンマーレとか何だあれ。モザイクなしの無修正、ここまでマルミエの母性は逆に面食らう。むしろこれは宮崎監督の皮肉なのかと思ったがそんなことしなさそうだしなぁ。
隣で見ていたsakstyle君は、見終わった後まるでマインドブラクラを踏んだかのような動揺っぷりだったが、僕はそこまで強い反応は引き起こさなかった。しかしラピュタと比べるとまるっきり裏返しのように見えて面白い。ラピュタにあったものは全てポニョに無く、ラピュタになかったものがポニョには全てある。

しかしラピュタ大好きっ子の自分が、その極北にあるはずのポニョをある程度受け入れてしまっているということは何か間違っているような気がする。「大して成長もしないくせにラピュタ好きとか言ってんじゃねーよ。お前はこれでも見とけ」という白い髭のオヤジの罵声がどこかから聞こえてくる。いや無論宮崎監督はそんなこと言わないのだろうが、勝手に脳内で再生されてしまう。

「半漁人のポニョでもいいのですか」というのはあれか、「すっぴんの彼女の顔も見れますか」ということか。僕化粧濃くない人が好きなんで全然OKです。はい。ポニョポニョした体型もまぁ限度はありますが嫌いではないですよ。





ダメだ何かポニョは上手く書けない。宮崎監督強すぎる。成長したくないなー。

鈴木謙介の「転向」?

タイトルは釣りです。サーセン。

鈴木による「ロスジェネ論」の批判的検討

[rakuten:book:13019616:detail]

文化系トークラジオLife

文化系トークラジオLife

鈴木謙介は「論座」九月号の中で、「見る者と見られる者――秋葉原事件と”モテ”る議論」というタイトルの論考を寄せている。

タイトルにこそ秋葉原事件が入っているものの、内容はそこから大きく離れている。事件の報道によって暴かれた加藤智大のパーソナリティは、「コミュニケーションの不全」という概念に改めて光を当てることになった。はてな村でも「非モテ」議論として定期的に話題になっていたが、秋葉原事件前後でさらにその流れは加速された。そしてそれは概念として固定化されることで、――コミュニケーションの「不全」という概念にも関わらず――それはまた別のコミュニケーションへと接続されていく。それの代表格が「非モテ」議論であり、また秋葉原事件と大きく接続された「ロスジェネ論」である、としている。そしてそのとき、自らの「不全性」をネタにコミュニケーションを接続するとき、そこには絶対的な「見る―見られる」関係が存在している。見られる者は、自らの不全性を確固たるものにするために「自分の苦しみは誰もわかりっこない」といった態度を取る。そして見る者は、それゆえに彼らを非常に分かりやすい「フレーム」の中に収めて見ざるをえない、そうでなければ見ることができない。しかしそうであるがゆえに、わかりやすいフレームを通すがゆえに、見ることへの欲望は容易にドライブされる。

鈴木は、秋葉原事件において一時的に自らが事件の被害者側の当事者になったことによって、その「見る者」の視線の欺瞞性を思い知らされた、と述べている。そして昨今の「ロスジェネ」論は、その欺瞞性を挟み込んだ上に成り立つ、非常に危ういものだとしている。ロスジェネ側(見られる者)は自らの絶対的な受苦性を、社会科学的の言葉を使い、分かりやすい「フレーム」付きで売り出す。周囲の者(見る者)は、そのわかりやすいフレームを通して、決してわかりえないはずの彼らの「苦しみ」をわかったつもりになる。ここには明らかな欺瞞が存在している。そしてロスジェネ側は、このフレームに乗らない、欺瞞のゲームに乗らないものを、徹底して排撃する。このような状況に陥ったロスジェネ論を、鈴木はこう突き放す。

事実、ロスジェネ論は私たち以外の世代からもはや白い目で見られ始めているという感触を、私は持っている。

鈴木謙介の「悲哀」

以上のような鈴木の論考を読んだとき、一瞬「あれ?」と思った。ロストジェネレーションという言葉について、またその世代を生きる者として、かかる問題に非常に敏感に反応してきたのは、何より彼だったはずである。「文科系トークラジオ LIFE」の2007年1月14日放送のテーマはずばり「ロストジェネレーション」であり、彼は「思い入れの深い回」としている。その彼がロスジェネ論に疑義を挟むというのは、一瞬「転向?」と思ってしまった。
しかし手元にある「LIFE」の本を読み返してみると、そんなことはなかった。彼は「ロストジェネレーション」という言葉がもたらす、人間を「奪われた者」「被害者」という絶対的な受苦者へと誘う力を徹底的に嫌っている。「被害者として同定することで、政治的な動員に巻き込もうとしている」という政府やメディアの姿勢を、論理的にも感情的にも嫌っている。

このときに彼が嫌悪していたのは、ロスジェネという言葉で特定の世代の人々を絶対的な受苦者に仕立て上げ、自分たちの望むように動員する、政府やメディアといった「外部」の人間であった。だが今回「論座」で彼が批判する「ロスジェネ論」は、そうしたロスジェネ世代の外部の人間が使っていたロジックを、まさに彼が叩いたはずのロジックを、ロスジェネ世代内部の人間が使っているのである。
鈴木謙介自身もロスジェネ世代としてその実際の労苦をかなり味わっていると思われる。であるがゆえに、自分が非難したはずのロジックをまさか味方(であるべきはずの人々)が使い出したことに、どれほどの落胆を覚えたろうか。

「証人」になりたがる「ムーゼルマン」たち

見られる者として自らを同定し、絶対的な受苦者の立場に逃げ込んだ人々は、差し伸べられる手をも拒絶する。悲しきハリネズミとなる。見られるだけのハリネズミと、見ることしかできない我々。しかし我々はその見た目にひかれ、ついついハリネズミを見てしまう。欺瞞のフィルタを通しながら。

彼の論考を読みながら、ジョルジョ・アガンベンのムーゼルマンを思い出した。アウシュビッツの中で、能動性を奪われ絶対的な受動性の塊となった「ムーゼルマン」。彼らは生きのびたユダヤ人たち「証人」によって語る言葉を持ちえた。しかし現代の「ムーゼルマン」は、自ら「証人」としてアウシュヴィッツの外に出ようとしている。果たしてそれは上手くいくのだろうか。答えはそう遠くないうちに出るだろう。

筑波批評社のブログを開設しました。

筑波批評社のブログを作りました。
id:tsukubahihyou

ご察しの通り、少なくとも文学フリマまでは、ゼロアカ道場道場破りを視野に入れたブログです。
その他の活動についても細かいことはこちらでお知らせします。
本格的始動は8月中旬ですが、とりあえず開設の報告まで。

『アキバ通り魔事件をどう読むか!?』をどう読むか。

アキバ通り魔事件をどう読むか!? (洋泉社MOOK)

アキバ通り魔事件をどう読むか!? (洋泉社MOOK)

「分かりやすさ」に振り回される人びと

いわゆるこうした「事件本(?)」は、洋泉社のではないものの、宮崎勤酒鬼薔薇といった、今回の事件と並べられるであろうものはそれぞれ読んだ。そして今回のこの本は、レーベルのせいなのかもしれないが、前二者と比べて圧倒的に面白くない。それはこれまで散々指摘されたこの事件の「分かりやすさ」のせいだろう。
現に本書に記事を寄せる論者27人の議論は、事件を既存の文脈(事件直前の社会情勢、論者の持論)にストレートに流し込むもの、またそのように事件を安易に「物語」に回収することの危うさを指摘するもの、この二つに大別できる。そしてこの二項は事件発生後一ヶ月の間にテレビ・ラジオ・新聞・ネットで散々繰り返されてきた構図となんら変わらない。ベタにしろメタにしろ、この事件にまつわる言説は「分かりやすさ」に支配されていることの証左となっている本である。*1そもそもタイトルからして「アキバ通り魔事件をどう読むか!?」であり、90年代の犯罪に付き物だった「心の闇」、つまり事件の容疑者である加藤智大という人間の「分かりにくさ」にアクセスしようという試みは端から放棄されている。容疑者自身の、物語に回収されないパーソナリティをどうにかこじ開けようという宮崎―酒鬼薔薇ラインで繰り返された試みは断念され、代わりに加藤智大容疑者をいかに物語の束に分解し、回収していくかという営みが繰り返されている。

物語の断念と欲望と

となると、この本に限らずメディア上に散見するこの事件についての言説を見た者は、なぜ我々はかようにも「分かりやすさ」から逃れられないのか、という疑問を持つことになる。そういう観点からすれば、荻上チキ氏の「物語の暴走を招くメディア/メディアの暴走を招く物語」という論考はそれなりに意味のあるものだった。事件を既存の物語に押し込める者がいて、それを受容する者がいる。そしてその物語のイデオロギー性を指摘する者がいる。まさにバルトの神話作用の構図にほかならぬが、荻上の論考はそうした構図そのものを提示する「解説者」(バルトの議論にそんなものはないだろうが)という立場であったように思える。
無論、荻上はそうした構図を高らかに解説し悦に入るなどという愚は犯さず、かような構造がいかにつまらないか、世の中を動かす力がないかを指摘する。社会を動かす力を持つのは常にそうした神話の構造の発生源たる加藤=事件を起こした者である。彼は言う。「そこで提示される物語にナイーヴに反応するのではなく、事件の衝撃やメディアイベントを「たくましくスルー」しつつ、それが通り過ぎた後に淡々と社会のアップデートを計っていくしかない」(p.97)と。
もちろん、文化系トークラジオLIFE秋葉原事件特集でチャーリー=鈴木謙介が指摘していたように「物語への欲望」は非常に強い磁場を持っている。「分かりやすさ」を振り切り、「たくましくスルー」できるのは文字通りたくましき「マッチョ」たる必要があることは留意すべきだろう。

あとは個人的に面白かったのは、東浩紀が、これまで新聞やテレビで述べてきたようなパフォーマティブでポリティカルコレクトな意見ではなく、かなり彼の持論の「ゲーム的リアリズム」の話に引き付けていたのが目新しかった(僕の観測範囲外ですでに話しているかもしれないが)。

*1:そう言う僕自身ももちろんそのうちの一人であった。

我々は何を隠してきたのか、あるいは「不可能性」の変遷

不可能性の時代 (岩波新書)

不可能性の時代 (岩波新書)

大澤真幸『不可能性の時代』を読み返していた。つらつらとメモ程度に。

不可能性―現実と反現実の乖離

東浩紀木原善彦が、大澤の(元は見田宗介の)命名法を援用して「理想の時代」「虚構の時代」に続く現代を「動物の時代」「現実の時代」と名づけていた。だがそもそもこの見田―大澤の「〜の時代」という命名法は「現実」の対義語としてどのような言葉が参照されているか、という考察に基づいているものであり、その考察を省略した命名法はオリジナルの意図には反するものである。(東については大澤との対談で直接指摘されていたようだ。)

大澤は、隠された「現実」を捜し求める「現実への逃避」と、ジジェクのいう「カフェイン抜きのコーヒー」のような徹底した形式への没入という「極端な虚構化」に現代社会が引き裂かれている、と指摘する。
生々しく、時に暴力的な「現実」への欲望と、コーティングされ、美しく安全な「虚構」への耽溺。これら二つの相反するベクトルが同居する現代社会は、つまるところそのどちらの視座にも捉えられない、<現実>を隠蔽しているのではないか、と彼は述べる。現実にも虚構にも捉えられぬ<現実>は、その名のとおり名状しがたい「不可能なもの」である。大澤はここから「虚構の時代」に続く現代を「不可能性の時代」と名づける。

理想の時代においては、理想は反現実でありながらしかしまさに反現実として参照されることで、現実へのフィードバックが存在した。虚構の時代においても、それは理想の否定形として、逆説的に現実へのフィードバックが存在した。ところが不可能性の時代においては、我々はそもそも「反現実」を参照することができない。極端な「現実」と極端な「虚構」へと視線がするりするりと逃れてしまう。大澤が不可能性の時代は最も反現実の度合いが高い、と述べているのは、この現実と反現実の極端な乖離ゆえである。

理想の時代における<不可能性>

さて彼は相反する二つのベクトルから逃れる<現実>をXと措き、最終的にそれは<他者>であるとしている。

人は、<他者>を求めている。と同時に<他者>と関係することができず、<他者>を恐れてもいる。求められると同時に、忌避もされているこの<他者>こそ、<不可能性>の本態ではないか。*1

「現実化」と「虚構化」の二つのベクトルから逃れ行く、別の言い方をすれば実践と認識から逃れ行く<現実>を、何が不可能なのかというその主語を彼は<他者>と措く。第三者の審級無き現代において、<他者>と関わるには直接的な接触とその負荷との間で板ばさみになる。極端な「現実」への欲望は<他者>への欲望でもあり、そして極端な「虚構」への耽溺は<他者>からの逃避でもある。結局のところ欲望と逃避に引き裂かれ、我々は<他者>と出会うことはできない。

ここで一度大澤の議論から離れる。理想の時代が終わり、虚構の時代へと移り変わっても、「理想」そのものは有効だった。それは単に個人の志向するものとなり、社会的な「反現実」としての機能を失っていただけである。同様に虚構もまた虚構の時代以外にもそれ自体は失効していなかった。とすると、現実と虚構から逃れ行く「不可能性」もまた不可能性の時代以外でも存在したのではないか(不可能なものが存在するというのもまた矛盾した言い方だが)。
不可能性の時代において、「不可能なもの」とされたのは<他者>であった。では理想の時代において「不可能なもの」であったのはなんだったのだろうか。一つ提示したいのは、<自己>である。1945年から1970年前後までの「理想の時代」において、敗戦という現実からスタートした日本人は、当初は迫り来る死から逃れるようにひたすら「生」を目指した。生きること。服を着てものを食べ家に住む。この「生」という究極の現実への欲望は、戦後の困窮期を超え高度経済成長時代にも引き継がれた。
敗戦からドライブされた現実への欲望がある一方で、敗戦からドライブされた虚構への逃避もまた存在する。戦後、戦争の恐怖は様々な形で虚構の中に埋め込まれた。分かりやすいのは1954年公開の特撮映画『ゴジラ』である。人々が必死に生という現実を生きる一方で、戦争の恐怖、特に核への恐怖は虚構の中で日本人を蹂躙し続けた。しかしその恐怖はアメリカという具体的な名前ではなく、ゴジラという架空の生物に背負わされた。

敗戦から始まった、生という現実への欲望と戦争の恐怖の虚構化は、しかし理想の時代が終わりに近づくにつれ、自己目的化し、それぞれ極端になっていく。死から逃れるための生であった人々の生活は経済成長によって自己目的化し、生活のための生活、成長のための成長へと近づいていった。『ゴジラ』もまた、シリーズの回を重ねるごとに戦争の恐怖は薄れ、ついには子供のヒーローという極端な虚構へと向かう。虚構のための虚構である。

この現実の極端化と虚構の極端化という構図は、時代が違うのでそこで参照される現実と虚構はそれぞれ違うものになっているものの、大澤が本書で指摘した不可能性の時代におけるそれと相似形である。
そして理想の時代における不可能なもの、極端な現実化と極端な虚構化に引き裂かれしもの、それは<自己>であろう。1945年当初は<敗者>というアイデンティティを保ちえていたこの国は、そこからスタートした現実への欲望と虚構への逃避が次第に自己目的化していく。その過程で<自己>、つまりこの日本という国は果たしてなんなのか、日本人としての私達は一体なんなのか、そうしたアイデンティファイを経て形成されるはずの<自己>は、隠蔽され続けていった。<敗者>としてのアイデンティティは、死から逃れる生への欲望に拠って、また一方でトラウマ化した戦争への恐怖に拠って担保されていた。だが前者は経済成長によって薄まり、後者もまた虚構化が徹底されるにつれ薄まっていく。日本も、日本人も、<自己>は隠されていった。

<自己>と<他者>の間にあるもの

理想の時代における「不可能なもの」が<自己>であり、不可能性の時代における「不可能なもの」が<他者>であるとすると、間にある虚構の時代における「不可能なもの」はなんなのか。もはやここからは完全な言葉遊びに過ぎないのだが、<自己>と<他者>の間に存在するのは何かを考えると、<世界>とか<社会>とかであろうか。つまるところ第三者の審級の隠蔽そのものである。
戯言を続けるなら、<自己>を隠し<世界>を隠し<他者>を隠してきた我々は、次なる時代において何を隠すのか。1大澤の区分で言えば、不可能性の時代が終わるのは2020年前後。もうこうなってくると隠すものはなくなって、どこぞの危ないカルト宗教のように「2020年に地球は滅ぶ!」とでも言ってみたくもなる。いや無論滅ばれては困るのだけれど。

*1:本書p.192

情報の複雑化と望まれる「マスメディア」

仰るとおりで。……といいたいけれど、事態はそれほど容易なレベルではなくなっている。「それはどのような経路で伝えられてきたのか」「なぜ伝えられてきたのか」といったメタ情報が必要になるということ、それはマスメディアによって伝えられる情報の一意性が疑義にかけられ、その正当性を担保する審級が既に失われていることを意味する。そしてオブジェクトレベルの情報の真偽を決定する審級が喪失している以上、メタレベルの情報の真偽を決定する審級ももはや一つには定められない。地球温暖化に関する論争などその典型例である。温暖化の証拠とその反証といわれる有象無象の「一次情報」が飛び交い、それを取り扱う「専門家」「識者」の言説がまた飛び交い、その言説についての言説もまた世に溢れている。

そしてあまりにメタレベルの情報の重要性「だけ」を喧伝すると、今度はたちまち陰謀論者がニヤニヤ笑いと共に舞台の袖からやってくる。あくまで現実の一部を切り取り判断するためのものであったはずの情報が逆に「現実」としてせり出し、価値の転倒が起こる。

ネットの情報を鵜呑みにすればメディア・リテラシーが高くなると思いこんでいる(そんな奴がほんとにいるのかどうかも分からないが)輩は、このメタレベルの情報をオブジェクトレベルにまで引き下げ、それを「本当の現実」として振り回している。ただそれも仕方が無いといえば仕方が無いことで、上記のように既にマスメディアが流すオブジェクトレベルの情報にせよそれについてのメタレベルの情報にせよ、真偽を決定する審級が一つに定まらなくなっている以上、こうした情報の転倒や、果てしなきメタレベルの議論(いわゆる「空中戦」)に突入するのは避けがたい。今たまたま読み返していた『UFOとポストモダン』の著者、木原善彦の言葉を借りれば「『個人的価値観』に基づいて各人が自分の好きな『現実』を選び取っている」状態が、社会の一部とはいえあるのは事実だ。

無論このような「情報戦」に普通の人々が耐えられるわけもない。ここでメディア・リテラシーの王道としては複数ソースの掛け合わせで蓋然性を上げる、となるのだろうが、個人的には短いスパンで見ると結構悲観的である。20年30年掛けてそうした教育をしていけばそれなりに大多数の人間が「啓蒙」されるだろうが、その時には既に情報の伝達システムが全然別のパラダイムにシフトしているとしたら。20年前と現在の違いを見れば、あながち一笑に付せる話でもないかもしれない。

となると、少なくとも短期的には「分かりやすさ」ゲームがどんどん広がっていくのだろう(現に今はそのモードだと思う)。メタ/オブジェクトを問わず情報がフラットにかつ大量に提示されている現在、望まれるのは人々の欲望にマッチし、かつ複雑な情報をお手軽簡単にまとめてくれるメディアだろう。大多数の人間の情報処理能力は20年前と大して変わっていない。しかし情報は無数に溢れている。とするとそれは必然的にマス志向のメディアになる。インターネットが普及してなお「〜のまとめ」「やるおで学ぶ〜」が人気を得るのも、結局そういうことなのだ。(ありがちな陰謀論も、ある種の人々に取っては「正しく」「分かりやすい」情報なのだ。)

マスメディアはダメだダメだといわれているが、複雑化した情報のハブ、という枠組みで考えればむしろ「マスメディア的なもの」は今後一層強く望まれるものだと思う。結局のところ見せる人間が見る人間の欲望を先取りし、見る人間がそれに応えるという共犯関係が不滅である以上、変わるのは媒体とその時々の旬のネタだけな気もする。