絶倫ファクトリー

生産性が高い

批評とは、暴力であると思う

批評とは、暴力であると思う。

暴力は善悪の彼岸よりやってくる。あらゆる論理や倫理に先立つ。私があなたを殴った。そのことをは厳然たる物理的現象であり、それ以上でもそれ以下でもない。それに対する善悪の判断、倫理は、こうした原初的な暴力に対する脆い後付けの柵である。
批評、なるものを僕はほとんど知らない。少なくとも文芸批評について書いたことは無いし読むことも少ない、なのでid:sakstyle主宰の筑波批評社として講談社BOX:東浩紀のゼロアカ道場この道場破りに参加することになった(筑波批評社は6人いるのでまだどの2人が出るかは決まっていない)今も、「批評」なるものが何かは、分からないでいる。だがかしこまった学術論文でもなく、さらさらとしたエッセイでもなく、しかし読み手に何かを訴える文章を書かねばならぬ、書きたいと思うとしたら、それはもはや文章による暴力である。現実に存在する何かを名指し、他と切り分ける行為である。そこに論理や倫理があるのではなく、それが論理や倫理を作り出す。大理石から寒天まで、あらゆるものを切り出し、この世に現前させる。それは鋭利な、実に鋭利な暴力である。

先日、ゼロアカ道場の主宰、東浩紀2ちゃんねる東浩紀スレッドに降臨した。とりあえずゼロアカ関連の質問を受け付けていたようだったが、

>>> つーか、ゼロアカの質疑応答はゼロアカのほうでやれよ。
アンフェアだろうに。。

その場にいれるかどうかも才能。
重要事項はちゃんとあとで公式に告知しますよ。

ゼロアカに関する質問を来週やります とか告知した?
なんで、そんなのしなくちゃいけないの?w
高校の入試じゃないんだから。みな自分で情報は探すんだよ。
ついてるやつはついてるんだよ。それが人生でしょ。<<

と言う受け答えがあった。これが大学受験なら相当まずいが、批評のレースにおいてルールは所与のものではない。批評が暴力であるならば、暴力のルールは暴力が決める。最初に一発殴った奴が「殴るのOK」というルールを作り、最初にナイフで切りつけたやつが「ナイフもOK」というルールを作り、最初に核爆弾を落とした奴が「核もOK!!!」というルールを作り出す。

ルールは我々の繰り出す拳の先にある。我々が繰り出すナイフの切っ先にある。我々が文字を書くペンの先にある。アカデミックな論文は既存のディシプリンに従えばある程度の方法論的正当性は調達できようが、どうも話を聞くだに批評はそうではないらしい。とするならば、あるものを名指しそれを他と切り分けたその返す刀で自らの立つ位置もまた切り出さねばならぬ。

今後批評社内では誰が中心の2人となって道場破りに参加するのか決めるのだが、僕個人としては上記のような意味で「暴力的」な批評を書いてみたいと思っている。名指し、切り分け、そしてまた新たな地平を切り出す。印刷された文字があたかも人を殺せるかのような批評。

形式への没入と予告.in

葬儀と資本主義―形式への没入

先日、大叔母の通夜に出てきた。よくある郊外型葬儀施設に入り親族席に座りながら、棺を囲む、葬儀会社の用意したありがちな葬儀用ガジェット(シュミラークル?)について思いをめぐらさせていた。
式が始まる前、親族に向かって葬儀会社の担当者がこう言った。「お焼香のやり方についてですが、流派に拠って異なりますが今回はお焼香は一度きりにしてください。というのも普段皆さん三回お焼香やられると思うのですが、それを意識するあまり手を合わせる時間が短くなってしまう傾向があります。なのでお焼香にかける時間は短く、手を合わせる時間を長く取れるように、そうしてください。」
魂胆としては単にお焼香にかかる時間の短縮、プログラムどおりの進行をしたいだけなのだろうが、「手を合わせて目の前にいる死者に思いを馳せるほうが大事」と言われれば確かにそうなのかもしれない、と思ってしまう。

そのとき、葬儀、もしくは宗教的な儀式は資本主義と相性が良いのだなぁと改めて感じた。葬儀は、死者への思いをその場にいる者が同時に馳せる場であるが、しかし個人の思いそのものは個別具体的であり、ばらばらである。そこで各人は死者へ思いを馳せるときの「形式」を統一することで、死者を集合的な記憶の中に位置づける。たとえ死者への思いがバラバラであっても、形式が同じなら同じように思いを馳せている、と措く。形式への没入である。
資本主義もまた、形式への没入によって成り立つ。資本主義は個別具体的な、一回性(アウラ)そのものを扱うことはできない。カタチあるものしか扱えない。貨幣という形式への没入、モノという形式への没入。1000円札は誰がどのようにそこへ思いいれようが、個別具体的な価値を見出そうがその形式は1000円札としての価値しか生み出さず、資本主義においては1000円札としての価値しか持たない。モノも、同じモノならばそこにどのような思い入れをもとうが形式は同じであり、また等価に扱われる。

このような類似性は無論宗教的な儀式のみに限らぬし、あらゆる場面でそれを指摘できるだろう。それが資本主義の強さであり、本質なのかもしれないと感じた。

予告.in―形式へと没入させるアーキテクチャ

話が変わるが、本日放送予定の筑波批評社Ust、「自己啓発トークラジオSURViVE」で、秋葉原事件以来話題の「予告in」を扱うらしい。この予告inもまた、形式への没入の体現者と言える。秋葉原事件前後で話題になっている「犯行予告」は、実に具体性を欠いた予告以前のものであることが多い。せいぜい時間と場所を指定して「皆殺しにする」程度のことを書き込めばあっという間にクロールされて通報、個人特定されてお縄頂戴となる。果たしてその予告がどれほど実行可能性/蓋然性があり、具体性のあるものなのか。そこら辺は全くのブラックボックスでありながら、しかしそれゆえに、具体性がないからこそそれは"Risk"("Danger"ではない)と見なされ、摘発の対象となる。書きこんだ本人の意図や実行可能性と言った個別具体的な部分は問題ではなく、その文の形式のみを取り扱っている。形式への没入である。

形式への没入は、個人が主体性を維持することの極北にある。インターネットは規範(norm)ではなくアーキテクチャによる形式への没入を可能にした。Web2.0の本質が「主体の喪失」にあるとはまさにこういうことなのだが、しかるにアーキテクチャルに人々(クロールされた「犯行予告」を通報する人・通報された「犯行予告」を摘発する警察)を形式へと没入させる予告.inは、まさにその典型例だと言えるだろう。

葬儀において我々が形式に没入するその先には、死者への想いがある。資本主義において我々が形式に没入するその先には何があるのか。何も無いといわれ続けて来たのがマルクス以降の歴史のような気もするが、詳しくないので省く。そして予告inにおいて形式に没入する人々のその先には何があるのだろうか?観念的で絶対的な「悪」だろうか。はたまた観念的で絶対的な「正義」だろうか。予告inはインターネット上の一部で苛烈な反応を引き起こしたが、しかし事態は様々な位相で同じ方向、アーキテクチャによって誘われし形式への没入、というパラダイムに確実にシフトしていくのだなと感じた。それは善悪の彼岸にある、構造的な変化である。

報道というプロペラは誰が回すのか トークラジオ「LIFE」の秋葉原事件特集についての違和感

報道という行為の循環構造

6月22日「秋葉原連続殺傷事件」Part2 (文化系トークラジオ Life)

いつもpodcastで聞いているこのラジオ、先月22日の放送は6月8日の秋葉原通り魔事件についてだった。
その中で、サブパーソナリティの1人、IT・音楽ジャーナリスト・津田大介氏が事件とメディアの関係、端的に言ってしまえば現場にいた人がモバイルPCを使って動画でライブ中継するという行為について見解を述べていた。だがそれを聞いていて、個人的にはなんともいえぬ賛同と違和感の入り混じった複雑な感想(津田氏自身も微妙な言いよどんだような違和感を表明している)抱いた。

津田氏は、事件の当日、現場の様子をUstreamというツールを使いウェブ中継するという行為が行われたことに対し、「原始的で個人的な違和感」を表明している。そしてまたそうしたインターネットを使った個人の中継配信を従来の報道機関による報道行為と混同すべきではない、としている。

ただ。本当にそうなのだろうか。報道と個人の中継配信は違うものなのだろうか。

報道と言う行為は、何か絶対的な正当性がバックに存在しているわけではない。報道の正当性を支えるのは、まさに報道と言う行為に他ならない。彼らの報道を行うことで、情報は社会に発信され、それが行為として認知されていく。そしてその事後的な認知を元手にまた報道を行う。報道と認知との絶え間ざる往復運動、それを続けることに拠って、循環の輪を止まることなく回し続けることによって、成り立っている。それは撮る者と見る者の共犯関係、とも言える。

津田氏と同じタイミングで、同じくサブパーソナリティの斉藤哲也氏もまたこう述べている。既存の報道機関の人間はプロとしての義務感があり、責任があると。故にそうした覚悟の無い者による動画配信はまた質が異なると。

確かにプロの記者には責任がある。それは確かに個人の責任感ではなく会社に仮託されている。

ではなぜプロの報道機関には責任があるのか。
対価を貰っているから。対価を貰う以上そこに期待された仕事を果たさぬわけにはいかない。
何故対価が払われるのか。それはメディアの俎上に載せる価値があるから。
何故その価値があるのか。それはそうした情報を見たいと思う人間がいるから。
何故そう思う人間がいるのか。それはそれを報道する人間がいるから。

結局、それを報道だと思い価値を見出す人間がいるから報道をすると言う、マッチポンプの構造は変わらない。個人によるUstなりなんなりの動画中継との違いは、そこに会社なりお金なりが挟まっているか否かであり、彼らの持つ正義感であるとか、プロとしての責務のようなものが絶対的な正当性を担保するものではない。無論、メディアの歴史を紐解くとそこには近代において公共性が立ち上がってきた過程との関わりが存在したりするのだが、しかしそれは循環構造を回し始めた「出発点」「契機」であって、いざそれが回り始めたとき、その原点は循環の輪の中に溶け込み、やがて消失する。プロテスタンティズムの倫理が資本主義を駆動し、それが循環し始めた暁には、肝心の出発点であった信仰心が消失していたように。

なので報道と言う行為は、その循環構造に拠って回り続けている限り、単純な論理構造で正当化できるものでもないし、逆に否定できるものでもない。もし何か絶対的な権威があってそれが影から報道と言う行為を照らし出しているのならば、その関係性に疑義を挟み込むことで否定も出来よう。そうではない。報道に対する論理的な支えも、また否定の言葉も、この循環構造に飲み込まれ、消える。

だから、もしこのサーキットを否定するのならば、ロジックではなく感情、個人の違和感といったものでしかない。津田氏が最初に表明した「原始的で個人的な違和感」が数多く集まり、報道を見たいと思う人間が消えるとき、その循環構造は止まる。プロペラの止まったヘリコプターのように、地に堕ちる。

Ustreamによる中継は、かなり批判的な意見も集まったようで、それの多くは「不謹慎だ」とか「人としてどうなの」という、津田氏のような、ロジックではない「個人的な違和感」による者が多かった。そして恐らく、そういう人が多数を占める限りにおいて、それは報道ではない。プロペラは回らない。循環はスタートしない。なので番組内での個人的な違和感も、彼がtwitterでこぼしていた違和感も、それがそれである限りにおいて、多分正しい。逆に言えば、津田氏のような違和感を持たず、見るという欲望に肯定的な人間が多数派である限りにおいて、それは報道となる。今回はそうはならなかった。だが次は? 5年先は? 10年先は? 20年先は? それは未来の我々が決めることになる。

論理武装することの危険性

ところが、津田氏はこの話題に関する見解の最後で、個人的な違和感に敢えてロジカルな理由付けを試みる。「個人による動画中継は、ライフログであり、報道とはレイヤーの違うものだ」、と。原始的で個人的な違和感であったはずなのに、ロジックではなかったはずなのに、どうにかロジカルな理由付けを行おうとしていた。でも多分、それは当初の違和感で留めておいた良かったはずなのだ。あんなの気持ち悪い。俺は見ない。認めない。それで十分だったような気がする。

逆に既存の報道と個人の動画中継を無理やり論理的に分離させると、今度は報道があたかも絶対的な正当性のもと、勝手に動いているのだと勘違いされてしまう可能性がある。何度も言っているようにそれは違う。そしてそんな絶対的な正当性など無いからこそ、わざわざ報道の自由、表現の自由というフィクションを立て、法律で支えているのだ。逆に言えば、既存の報道だって、我々が「ないわー」と言って見ることをやめればそれは報道として成り立たなくなるし、またまともなモノを伝えていないと思えば見ることをやめてそれを潰すことも可能だし、可能でなければならない。

このようなことをわざわざ言うのは、別に僕が既存の報道機関が嫌いだからとかそういうのではない。「インターネットが世界を変えるんだ!」と叫びたいからでもない。インターネットは好きだが、昔からテレビにしろ新聞にしろ報道を好んで視聴してきた人間でもあるし、今もそうだ。
だからこそ、もし我々が報道が必要であると思うならば、それを空から降ってきた神様の贈り物かのようにその存在や正当性を絶対視、自明視してはいけないと考えている。絶対的でないからこそ、論理的に自明で無いからこそ、報道は人々の様々な努力でもって支えてきたし、今も支えられている。

報道というプロペラは回り続ける。
誰がまわしているのか。報道する者、それを見る者である。
誰が止めるのか。報道する者、それを見る者である。
なぜ回るのか。回り続けるからである。

では何故回り始めたのか?それを回そうとした数多くの人間の努力と長い時間があったから。

では今後も回り続けるのか?それは我々が決めることである。もしかしたら、もし我々がプロペラの回り方に無自覚であり、勝手に風が吹いて回っているのだとのほほんとしていたら、いつか止まってしまうかもしれない。それを強く人々が望んだ結果なら、それはそれでありだろう。けれど、「気づいたら止まっていた、止まると困るんですけど、動いてくれませんか」では遅すぎる。

「承認」だけでは済まぬ問題たち―物語と承認の彼方に

「承認」の話が自分の観測範囲内でちょくちょく見られるので後出しじゃんけんをしてみる。「ロスジェネ」のシンポでも色々話が出たようだが、パフォーマンスと言えどナイーヴな議論も出たようで、またいくつかの議論はその焦点がぼやけているものもある、と思ったので書いてみた。彼女が出来れば、セックスできれば、コミュニティに所属すれば、作品を認めてもらえれば、「承認」にまとわり付く諸問題は解決する、というわけではない。問題はその深層にある。

自己の連続性としてのアイデンティティ

「承認」と一口に言ってもそれは様々なコンテクストの中で語られ、また意味を持つ。だからこそはてな村で延々と議論されまた車輪の再発見をもたらしうるのだが、それではちょっとノイズが大きすぎるので、社会学者のアンソニー・ギデンズに拠って(彼の)「アイデンティティ」論に置き換えてみる。

まずは引用から。

自己アイデンティティは、生活史という観点から自分自身によって再帰的に理解された自己である。*1

ある人のアイデンティティは行為のなかにあるものでも、他者の反応のなかに――これは重要であるが――あるものでもない。むしろ、特定の物語を進行させる能力のなかにあるものである。*2

ここで言う「アイデンティティ」とは、自分はこれこれこういう人間である、という自分についての「物語」を持ち、かつそれを維持していく能力のことである。例えば大学を出てサラリーマンになって結婚して子供を持つ、そういう人生送ってきた人間は、そうした過去によって現在があるのだと感じ、またそれに基づいて未来への予測をつける。このように自分の「物語」が過去・現在・未来において通時的連続性が保たれている状態を「アイデンティティが保たれている」と呼ぶ。

逆に言えば、この「物語」の一貫性が失われたとき、その人のアイデンティティは保持されなくなる。典型的なのは大きな病気や事故である。それらははその人の物語を中断させ、苦痛に満ちた、「物語」に回収することを承服せざる人生へと彼を追いやってしまう。

ただし、人は最初から単一の物語を生きているわけではない。複数のレイヤーからなる複雑な人生を生きている。その中でどれをどのように自分の「物語」とするのか、そうした取捨選択が常に行われる。*3
「承認」とは、人生の中に散らばった出来事の中から、どれを「物語」のうちに組み込むのか、その判断材料だと考えている。例えば僕は「自分は大学生で、社会学を学んでいる人間だ」という物語を持っていたとする。これはゼミなり授業なりの大学生活を送ることで日々維持される。ところが周囲の人間から「部屋に引きこもってネット三昧の君が大学生?wwwニートの間違いだろJK」「君、社会学やってるとかこの成績で良く言えるね。卒業だぁ?ここは病院じゃないんだよ。」*4等々言われ続ければ、つまり「承認」がえられなければ、当然僕は「自分は大学生で〜」という自分史を「物語」として採用できないし、そうしていたとしてもたちまちその物語は破綻する。

そして承認がない、アイデンティティの喪失という話をするときに問題となるのが、アイデンティティを保持する際の「自明性」である。上で書いたように、アイデンティティを保つには、「物語」の連続性を保つには日常生活におけるほんの小さな「承認」さえあれば良い。わざわざ「承認された!」とか感激するレベルのものは必要なく、そこに疑問を挟み込まない、「自明である」状態が保たれればそれで良い。逆に言うと、「私は何故このような人生を送っているのだろう」「私は何故このような『物語』を選んでしまったんだろう」という疑問を抱いてしまうと、「自明性」は崩れ、アイデンティティの保持は難しくなる。ランニングマシーンの上で走っているときに、「何故私は走れているのだろう」「何故足は動くのだろう」などと考えたらあっという間に足は止まりランニングマシーンから振り落とされる。

「幸福の神義論」―物語の正統性をどう確保するのか

自分の「物語」を相対化してしまい、「他にもありえたはず」の自分を想像してしまうと、そしてそれがリアリティを持ってしまうと、アイデンティティの危機に陥る。ギデンズのみならず多くの識者が言うには、近代、特に「後期近代」と呼ばれる現代にあっては、こうした「他にもありえた自分」に容易に遭遇する。シノドスα2〜3号やその他の著作において社会学者の鈴木謙介が「幸福の神義論」と呼んでいたのはこうした問題群だと思われる。人生40年生きてきて今までそれなりに幸せだと思っていたが、様々な情報に接してみると本当はそうじゃなかったんじゃないか、他にも幸せな人生がありえたんじゃないか、そういう疑問を持ってしまう。自分の「物語」の正統性をどう調達するのか。批評家の福嶋亮太氏が自身のブログで挙げていた「神話」「スピリチュアル」などはこうした問題を解決するのに使われる。「前世」などのスピリチュアルな言説は、個人の「物語」を直接構成するわけではなく、その物語の彼岸において、物語の正統性を後ろから照らし出す。そしてそうしたシステム全般を「神話」と呼ぶ。前世がこうだったから、あなたの「物語」の選択は正しい。こう言われることで、アイデンティティは保持される。またギデンズは同じ文脈で「セラピー」の重要性を挙げている。

同じく批評家の藤田直哉氏がブログで「承認する人間への承認」と名づけた問題は、この「物語」の正統性を担保するシステムの構築、ということになるだろうか。ただこれはかなり難しい問題である。というのも巷で言われるような「承認がない!」というのは、実はほとんどがこの承認する者への承認、物語の正統性の確保という話に繋がるからだ。
そしてこの問題が解決困難なのは、ひとえに「見てしまったこと/知ってしまったことは、見なかったこと/知らなかったことに出来ない」という不可逆性にある。「他にもありえた自分」を想像してしまった人、「私は本当に幸せだったのかしら」と疑問を抱いてしまった人は、その想像なり疑問なりそのものを「キャンセル」は出来ない。逆に言えば、そうした疑問を持たなければ、たとえ一般的に見て辛い境遇でも、物語の正統性を確保して生きている人はたくさん居る。例えば「フリーター」という境遇。このブログでもたびたび言及している労働社会学者の新谷周平の論文に出てくる「地元のつながりを異常に重要視する若者」たちは、たとえフリーターや無職であっても自分たちの生き方を相互に承認しあい、特に実存的な問題を抱えることなく生きている。そこには彼らの物語に正統性を与えるようなカルチャーが存在している。逆に彼らは、そうしたカルチャーに耽溺する限り、その境遇にずっと居続けるだろう。

ただこうした人々はむしろ例外であり、歴史的にも近代国家は規律訓練の過程を利用して「あるべき自分」を人々に見せ続けてきた。ベネディクト・アンダーソンの言う「巡礼」である。後期近代においてその役割は民間企業に取ってかわられた。企業内部では「自己分析」とそれに続く「キャリアデザイン」を要求される。消費社会においては、メディアを通じて「あるべき消費の姿」を見せられ続ける。

過食症社会―我々を飲み込み、吐き出すこの社会

福嶋亮太氏が言うように、こうした状況はもはや不可逆的であり、かつ物語の正統性を調達するシステムは益々見えづらいものになっていくだろう。ジョック・ヤングは我々の生きるこの後期近代を「過食症社会」と呼んだ*5。社会は我々に「あるべき自分」「こうであったかもしれない自分」を次々に見せてくる。文化的な側面―主に消費文化―においては社会は我々を「飲み込む」。だが一方でなかなかその「物語」の正統性は与えてくれない。その物語を選んだ自分を承認する根拠を与えてくれない。そうして社会は我々を「吐き出す」。

「物語」の正統性の調達。幸福の神義論。承認する人間への承認。この難儀な問題を考えるに当たって、単に性的欲求を満たせば良いとか経済的な補助をすれば良いとか言った議論はあまりにナイーヴであり、また先人たちによって棄却されてきた。我々が欲しているのは、単なる承認でも物語でもなく、その奥にあるアイデンティティの統御システムである。その崇高なるシステムにアクセスできる人間は減っており、また今後も減り続けるだろう。そこから漏れた人間はどうするのか?一つは小さな集団の中で物語の正統性を調達する「カルチャー」を作ることだ。だが社会的ステータスの確保と「あるべき自分」の達成が関連付けられた社会に置いては、「カルチャー」の中で耽溺することは社会のババをひくことに繋がるかもしれない。むろん既に社会的ステータスを持っている人間が同じことをする例もあり、その象徴がホリエモン逮捕以前の六本木ヒルズカルチャーであった。

哲学者東浩紀の言う「動物」は、この難問に対する一つの解であったと思う。そして秋葉原の事件はその解の正当性に小さな傷を付けた。その傷は次第に大きくなりつつある。動物にもなれなかった者の意義。

ギデンズの予言を受け入れるならば、我々は日々どうにか物語の正統性を見つけようともがきつつ、時にセラピー的な外部装置によってそれを調達する。その繰り返しで生きていくのだろう。過食症社会の中で、「飲み込まれ」ながらもどうにかこうにか「吐き出され」ないようにギリギリのところで繋がる。その往復運動の中で擦り切れながら、人生を終える。それはおそらく不可逆的である。そんなのは嫌だ?では「ドラッグ」に頼るしかあるまい。*6「あるべき自分」「こうであったかもしれない自分」も、過去も未来も全て忘れさせてくれる麻薬に。

*1:アンソニー・ギデンズ『モダニティと自己アイデンティティ』p.57

*2:前掲書 p.59

*3:なので「物語」の中には当然事実とは異なる出来事も混ざってくる

*4:そ、そんなこと僕は言われて無いんだから!ところで「ここは病院じゃない」は秋山仁が実際に言われたらしい

*5:ジョック・ヤング『排除型社会』

*6:http://d.hatena.ne.jp/naoya_fujita/20080628/1214639591 この中段以降を参照

「フォト・リテラシー 報道写真と読む倫理」

フォト・リテラシー―報道写真と読む倫理 (中公新書)

フォト・リテラシー―報道写真と読む倫理 (中公新書)

1952年、後に写真史上にその名を残す写真集、『決定的瞬間』が出版される。フランス人写真家カルティエ・ブレッソンの手によるこの写真集は、しかし原語のフランス語から外国語に翻訳される際、名前を書き換えられていた。英語名は「The Disicive Moment」。日本語名「決定的瞬間」もこの和訳からとられた。所謂重訳である。だがフランス語の名前は「Image a la sauvette」、著者の訳によれば「かすみ取られたイマージュ」であった。
誰が何故このような書き換えを行ったのか。何が「かすみ取られた」のか。この写真集の持つ真の意味はなんなのか。ここから数々の名写真に秘められた本当のメッセージが次々に暴かれていく…。写真版「ダヴィンチ・コード」の決定版!



と、いうストーリーの本ではない。もちろん。ただブレッソンの写真集の名前が「かすみ取られたイマージュ」から「決定的瞬間」に変えられたというのは事実である。そしてそのことは、「写真」なるものを撮る側だけでなく見る側からも考えるとき、様々な示唆を含んでいると言える。

アートか、報道か、商品か

本書は「フォト・リテラシー」という名の通り、従来写真を撮る側に求められて続けてきた論理的・倫理的課題を、見る側からもまた考える必要がある、という趣旨の本である。

写真が技術的に普及した後、「写真は芸術か?」というテーゼが持ち上がってきた。このテーゼは暗黙のうちに「否」という答えを包含していた。20世紀に至るまで、写真は単純に芸術というハイカルチャーの下部に存在する二級品扱いだった。そしてそれに抗うため、写真はなるべく絵画に近づこうとした。様々な装飾や加工が施された。

「報道写真」は、貶められた写真と写真家の地位を向上させるための手段として立ち上がってきた。20世紀半ばまで、写真家は自分たちの撮った写真を編集段階で容易に改ざんされたり意図を捻じ曲げられたりする立場にいた。そのため1910〜20年代にかけて、ブルッソンを初めとした欧州の写真家たちは写真家による構図の保持と編集における加工の否定を掲げて「一枚の写真」の持つ絶対価値を守ろうとする。写真に「絶対的客観的真実」を読み込ませ、報道における価値と品格を与えようとした。そうした努力の中で生まれた写真群が冒頭の『決定的瞬間』である。ブルッソンは動きのある瞬間的な一枚の写真に、「現実を切り取る」写真の力を見出そうとした。

だが、と著者は続ける。そうしたリアリズム的な流れの中で立ち上がってきた「報道写真」が写真集や絵葉書、グラフ雑誌に載ることで「消費」され、普及していく中で、「アート/ジャーナリズム/コマーシャリズムの境界はきわめて曖昧」になっていく。写真は単に現実を切り取ったものではない。まず写真家による被写体の選定、構図の選定、現像時における選定、流通媒体に載せる際の選定、キャプション、などなど数多くの変数が間に挟みこまれている。また写真を展示したり掲載したりする際、どういう並び方にするかによってもまた受けての印象はかわる。そしてそれらの選定には、あらかじめ写真を見る側の「欲望」が先読みされていることがある。

リテラシーの必要性

そのような過程を知らず、「現実を切り取った」ものとして写真を無謬なるものに仕立て上げるのは危険でありまた見る側の「リテラシー」が必要だ、と著者は述べている。第二次大戦中のプロパガンダと同じ手法で大戦後はアメリカの進歩主義的「ヒューマニズム」が素朴に写真の力によって喧伝されたように、写真はいかなる恣意性からも逃れることは出来ない。そしてそうした恣意性を脱色することは、写真の「写していないこと/写せないこと=表象不可能性」を丸々見落とすことになる。戦争写真などはまさにそうである。キャパの「崩れ行く兵士」などはむしろ例外的で、戦争という極限状態は多くの場合事後的にしか映し出せない。ナチス収容所の例などがその典型例である。

また個人的にはベネトン社の広告を手がけたオリヴィエーロ・トスカーニの話も面白かった。彼は1980年代から、アパレルメーカー・ベネトンの広告を手がけてきたが、彼の作る広告は斬新を超えてショッキングであった。コンドームがひたすら並ぶ写真、血まみれのTシャツとジーンズ、母親から今取り出されたばかりの血にまみれた胎児。こうした写真の片隅にひっそりとベネトンのコマーシャルロゴが入る。ベネトンの商品とは全く関係が無い。当然、賛否両論の激論を巻き起こすことになるのだが、トスカーニにとってはむろん折込済みである。それらの写真はもし「報道写真」としてグラフ雑誌などに載っていたら、たいしたことのない写真として容易に「消費」されてしまうだろう。だがそれが「広告」という媒体を通して世に出たとき、かような苛烈な反応を引き起こす。そしてそのことは、写真そのものではなく我々見る側の意識が写真の在り様を決めているということが明らかになる瞬間でもある。

「共犯関係」の入門書として

ヨーロッパ近代写真史をなぞりながら、「報道写真」の成り立ちとそれのアートやコマーシャリズムとの不可分性、編集の際の恣意性、写真の表象不可能性などを鮮やかに、軽やかに記述する筆者の技量は読み手にリズムを与える。さくさくと引きこまれてしまう。また作品名が出てくる場合は適宜サムネイルが付いており、それだけでも門外漢には勉強になる。

ただ新書で分量が限られているため、サブタイトルにある「倫理」にまでは深く突っ込めていなかった。もちろんそれこそ新書一冊どころか単行本一冊でも全く足りない重厚なテーマであろう。一応、そのテーマを追うために参照すべきとされる本は何点か挙げられていた。ロラン・バルト『明るい部屋』、スーザン・ソンタグ『他者への苦痛のまなざし』、西村清和『視線の物語・写真の哲学』など。本書を出発点として、参考文献を当たりながら見識を深めていくにはちょうど良い入門書であった。

著者はあまり突っ込んでいなかったが、写真のみならず動画やその他のメディアに置いても「撮る側の恣意性」と「見る側の欲望」の共犯関係は常に意識する必要がある。特にインターネットの普及によってそうした関係は偏在化しつつある。秋葉原通り魔事件で現場写真を撮る者の倫理という問題が問われたが、そのような問いは報道写真の成立当初から常に生じている問題であり、それらをまず参照することが先決であろう。むしろ問題は技術の進歩により、我々見る側の「欲望」が用意に叶えられるようになり、撮る者見る者の共犯関係が偏在化したことにある。それは単純に撮る側の倫理を正すだけで済む話ではない。見る側の欲望をどう扱うべきなのか、そのコントロールの不可能性/妥当性という点も含めて考えなくてはならない。その際本書で明らかになるような、「報道写真」なるものが成立した歴史的経緯は大いに参考になるだろう。

前回の西成地区暴動のエントリについての訂正

前回のエントリについて。コメント欄でのyas-igarashiさんとのやり取りを見ていただけると分かるが、「追記」として書いた部分

追記:ちなみに僕はこの件について「警察の暴力性」とかを批判するのはナイーブだと思っている。確かに警察の対応は横暴だが、それが警察というものだ。騒ぎがある(と思えば)彼らはその圧倒的な力で介入する。それが警察の本来の姿であり、暴力の独占装置としての原理でもある。そしてその非対称性を指摘しても批判にはなりこそすれ力を持たなかったのはこの国の左翼が証明してきた。大事なのは彼らが介入するようなきっかけを作らないことだ。

この文章を撤回する。

僕は今回の暴動を西成地区の日常と分けて考えていた。けれどもう一度ウェブに上がった関係者の話や報道を見るにつけ、それは端的な間違いであったことがよく分かった。この地区における警察と労働者の間の対立は、それが顕在/非顕在を問わずもはや日常化しており*1、どちらが先とも言えない暴力の循環が空間に渦巻いている。両者の融合しがたい、しかし一方で分かち難い関係は、アノミーの日常化という転倒を引き起こしているようだ。だとするならば、先の暴動は決してこの地区の日常と切り離せるものではなく、日常の延長線上にある。そしてそこで警察の暴力性への批判をやめることは、日常からの撤退を意味する。労働者にとっては文字通りの死を、警察にとっても超えてはならぬ一線を越えるきっかけになりうる。

これは陳腐な相対主義ではない。警察も労働者もどっちもどっち、で片付く話ではない。警察への抵抗は目的ではなく出発点である。この例外状態とも言うべき転倒した空間をまず認識しないと、あらゆる「正論」は空論になってしまう。もちろん今回の暴動について記事を書いている方々の多くにとって、そんなことは当たり前だったのだろうが、僕はその当たり前の認識が欠落していた。*2

警察が悪い、労働者が悪い、どっちも悪い、暴力は良くない。こうした一般的な位相の規範は、絶え間ざる暴力の循環という、中心なき中心に向かい、消失する。id:sumita-mの言葉がこのことを簡潔に表していた。

暴力を議論する際に最も避けなければいけないのは、安手の<道徳>に拠りつつ議論を進めるということだろう。これは<道徳>を損ねてしまうし、同時に<暴力>の根にある<生命>や<自然>を損ねてしまうことになる。

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080622/1214148581

この「善悪の彼岸」に相対して、ではどうすれば良いのか。どこが終わりなのかも分からぬ「出発点」に立つと、うっかり安易なニヒリズムに走ってしまいそうになる。けれどそれが一番、当事者にとって残酷なことなのだろう。僕がここでグダグダと偉そうなことを書いたところで人一人も助けられないが、それでも何も言わず何も見ず、背中を向けることは、彼らの立つ「存在の地平」を閉ざすことになる。

*1:例えば、ちりばめられた監視カメラ、要塞と評される警察署。

*2:同時に、労働者の警察への抵抗はマルキシズム的な「闘争」ではないとも言えるだろう。闘争の先には何か得るものがあるかもしれない。けれど彼らに得るものはない。それは転倒した日常の保持なのだから。

西成区暴動と社会関係資本

最近脊髄反射でコメントしたりエントリ書いたりすることが多い。いやだなと思う反面自分の興味を惹く話題が多いのだなぁと思う。そしておそらくそれは社会が悪くなっている傾向なんだろう。社会学で社会を語る奴が出てきたら、その社会は悪い状態にある。

社会関係資本の負の側面

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はてブ界隈で話題になっているこの記事、最近の西成暴動を巡る記事である。いかにも最近の「産経臭」のする煽り記事なので真偽の程は分からないし、かなりフィルタを外しながら見なければならないのだけれど、敢えて釣られてみる。

記事の出だしはこうだ。

日本最大の日雇い労働者の街、大阪市西成区のあいりん地区で13日夕に始まった労働者らによる騒動は、西成署への抗議活動の中心だった釜ケ崎地域合同労働組合(釜合労)委員長の稲垣浩容疑者(64)が18日に道交法違反容疑で逮捕され、一気に収束した。5夜にわたって西成署の前で街宣車を使って抗議し、労働者をあおり続けた稲垣容疑者とはどんな人物なのか−。

そして記事はこう続く。

稲垣容疑者は昭和56年の釜合労結成当初から委員長を務めている。日雇い労働者への炊き出し、労働や医療相談などを行い、「先生」と呼ぶ労働者もいるという。警察や大阪市に過激な抗議活動を行うことでも知られている。

今回の騒動では、稲垣容疑者が夕方に西成署の前に街宣車を横付けし、拡声器を使って抗議を開始。「集まれ、集まれ」と労働者を集結させ、「署長が出てきて謝れ」「警察も土方してみろ」「シェルターに泊まってみい」「労働者を差別するな」と連呼した。

そして締めとしてこのような「府警の言葉」を紹介している。

「労働者の側に立つ自分をアピールして、活動へのカンパを集めやすくしているのではないか。稲垣容疑者自身、一戸建ての住宅に住み、高級車に乗っていることをどれだけの労働者が知っているのだろうか」。

記事の書き手としては、稲垣は単なる煽り屋であり、自分はブルジョワな暮らしをしている、労働者の仲間なんかではないという府警の主張をなぞりたいのだろう。確かに労働者というクラスタの中では家持ち車持ちという事実は「スティグマ」になるかもしれない。いかにも警察的な発想である。はてなブックマークコメントでもこの言葉はわりとフィーチャーされていた。

けれどこのこと、「扇動者」が全く労働者とは異なる階層にいるというのが事実であるいことは、決して労働者にとってマイナスではない。ごく普通に考えて、炊き出される側―労働者―が炊き出しを出来るわけが無い。金がない人間に金がない人間はそう救えない。

府警は完全に相手の姿を見間違えていると思う。「にわか」で集まってきた人々はともかく、普段から彼の周りにいる人は彼の生活水準を知っているだろうと思う。だからこそ、彼の周りにいるのだろう。
府警が相手にしていたのは、単なる労働者の塊ではない。これまでの報道を見ると、彼らが相手にしてきたものの中心にあるのは、社会関係資本ソーシャル・キャピタル)によって繋がった緩い組織体だろう。社会関係資本とは、ある人間の集合の中で一定の規範が共有され、人々の間にネットワークが存在し、さらに相互の信頼が成り立っているとき、それは組織として個人に大きなフィードバックをもたらすという、社会学の概念である。
そこには相互扶助の精神が立ち上がり、持つものから持たざるものへモノ・金・情報が流れる。この人に何かすれば何か見返りが望めるだろう、という特定の互酬性ではなく、自分が人助けすればいつか他の誰かが自分にもそうしてくれるかもしれない、自分が何かすることでそうすることが一般的な規範となり、いつか自分にもメリットがあるかもしれない。「情けは人のためならず」的な状態がうまく機能している状態である。

暴動が深刻化する以前は、記事にもあるように炊き出しをしたり世話をしたりとこの界隈における「持つもの」として、モノや情報を「持たざるもの」へと流してきたのだと思う。彼にとってそれが何のメリットになっていたのかは分からないが、社会関係資本の担い手として、そのコアにいたのでは、と記事からは伺える。

しかし社会関係資本にもマイナス面がある。負の外部性が存在する。その最たる例としてよく挙がるのがギャンググループである。彼らの中では任侠的な規範・信頼・ネットワークが存在し、成員間をモノ・金・情報が流れる。だがそれは完全に組織の外部を排除した、違法行為に拠って得たモノ・金・情報が流れる空間でもある。社会関係資本は時に組織を排他的な傾向へと向かわせる。

さらに言えば、社会関係資本の理想はフラットな一般互酬性の機能した状態なので、組織における「コア」が存在するのは必ずしも良いとは限らない。ギャングの例にしても、彼らの中にはリーダーを中心としたヒエラルキーが存在し、上層部が規範の運用やネットワークの運用を担っている。そのため排他的で外部不経済的な要素を周りが取り除けない。薄く広い関係が横長に繋がるのが理想形態である。強く強固な関係が縦長に繋がるのは、社会関係資本の負の側面を引き出しやすい。

これで問題は「収束」したのか?

記事を見るとどうも大阪府警が相手にしていたのは、稲垣容疑者をコアとした、規範・信頼・ネットワークで繋がった緩い組織体なのではないかと思う。そしてそれがこのような事態に至ってしまったというのは、まさに社会関係資本の負の側面が出てしまったのではないのか。稲垣容疑者への信頼と、その周りの人間のネットワーク、そして彼の行動に乗ってしまう規範が、最悪の形に働いてしまった。

だとするならば、府警は、というかこの国はヘッドを捕まえて労働者を解散させるだけでは問題を解決できない。単なる群集のアノミー化であれば集合を個に散らすことでヒステリー的状況を抑えることが出来るかもしれないが、社会関係資本に基づいた緩い組織体はそれだけでは崩れないし、また完全に崩すのもまずい。今回は警察との全面衝突と言う最悪の形で社会関係資本の側面が露呈したかもしれないが、普段はそれによってメリットを享受していた人間もいるだろうからだ。相互扶助の関係性が崩れたとき、最も困るのは持たざるものである。

とはいえ、まさか彼らの全ての持つ状況をいっぺんに変える手段があるわけでもない。短いスパンの話で言えば、社会関係資本の「暴走」を防ぐには、排他性を減らすのが遠回りな近道なのではないかと思う。考えてみれば何故稲垣容疑者のような人間が「先生」なるポジションになり得たのか?それは他の人間がこの地区の人間にコミットしなかったからだ。少なくとも彼らの「規範・信頼・ネットワーク」に加われるほどの深入りをした人間はいなかったのだろう。西成地区の暴動について書いたエントリで、労働者のバックには「ヤクザと新左翼同和利権者と宗教とが複雑と入り乱れた、信用出来ない連中」が付いていると書いた人間がいた。彼はそう記述することで労働者を貶めたかったのだろうが、逆である。たとえそういう人間が労働者のバックにいたとして、それはそういう人間しか彼らに近寄らなかったということの証左である*1。もし彼らの社会関係資本に入り込むことが出来る外部の人間がいれば、それは稲垣容疑者のような人間をカシラにしたタテの排他的な組織体ではなく、横のつながりを持った、排他性の少ないものになったかもしれない。もちろん、今も以前もそうした活動をしている人はいるしそうした人を僕は知っているけれど、しかし全体の規模に対して人数的にも社会の理解としても圧倒的に少ないのだと思う。

何より気持ち悪いと思うのは、冒頭の記事が稲垣容疑者の逮捕で問題が「一気に収束した。」と書いてしまうような、リーダー捕まえてクモの子を散らせば問題は解決するというイージーな発想とそのような発想が出来る神経だ。この地区は労働者の高齢化やその他の複合的な問題を抱えている。それは恐らく周囲の空間とここが長い間断絶していることの証ではなかろうか。無関心は、短期的にも長期的にも彼らを嬲る最大の凶器なのではないかと思った。

追記:ちなみに僕はこの件について「警察の暴力性」とかを批判するのはナイーブだと思っている。確かに警察の対応は横暴だが、それが警察というものだ。騒ぎがある(と思えば)彼らはその圧倒的な力で介入する。それが警察の本来の姿であり、暴力の独占装置としての原理でもある。そしてその非対称性を指摘しても批判にはなりこそすれ力を持たなかったのはこの国の左翼が証明してきた。大事なのは彼らが介入するようなきっかけを作らないことだ。

*1:ちなみにまさかそのような人間しか本当に労働者を支援していない、という訳はない。偏見である。