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ゼロ・トレランス(ノー・トレランス)について

某所から話が来たため、ゼロ・トレランスに付いてちと書きたいと思う。*1

ゼロ・トレランス、および割れ窓理論


ゼロ・トレランスの概要に付いては以下wikiから。
ゼロ・トレランス方式 - Wikipedia

本来は工場で出る不良品を完全にゼロにしよう、という標語に由来するこの言葉は、1980年代のアメリカで提唱され、「荒れた」学校の治安を取り戻すために導入された。校則を厳格に制定・運用し、違反者には例外なく速やかに停学・退学処分を突きつける。日本では「不寛容」方策とも呼ばれる。


ただし、wikiだけを見ると、教育現場で使われている用語のように思われるが、本来は犯罪学の領域で提示され、その後アメリカの都市政策、防犯政策の基礎となった「割れ窓理論」に依拠している。初発は街頭の治安対策で導入されたのではないかと思われる。
割れ窓理論」とは、ウィルソンとケリングが主張した理論で、「無秩序と犯罪は相関関係にある」というものだ。一つの窓が割れていると、それ自体は大したことではなくとも、その街が無秩序にあることを表し、さらに大きな犯罪を招く、という理論である。そのため、ホームレスや物乞いと言った、犯罪に当たるかどうかも微妙な案件を警察は徹底的に取り締まるべきだ、という「ゼロ・トレランス」政策に繋がる。

その問題点


ただしこれには政治学・社会学的にいくつかの問題点が散見される。
1.「ゼロ・トレランス」導入による、監視・ペナルティ執行のコスト上昇
2.「ゼロ・トレランス」が導入されたコミュニティ内部における、相互信頼の欠落
3.「リスク化」の全面化による無限ループ
4.「トレランス」を規定する基準の恣意性

1つ目は文字通りである。「ゼロ・トレランス」を導入する以上、違反は全て平等に発見され、違反者は全て平等に罰則を受けねばならない。そのためにはそのコミュニティ内を確実に監視し、確実にペナルティを与える機構が必要になる。これにかかるコストが必然的に必要になってくる。されに、そのコストをコミュニティ内の全ての人間に平等に負担させることは、果たして平等なのか。「ゼロ・トレランス」によって恩恵を大きく受けるもの、少し受けるもの、全く受けないもの、それぞれに対して同じコストを要求することは、平等による不平等と言えはしないか。

2つ目はソーシャルキャピタルの問題に繋がる。*2街頭治安における「ゼロ・トレランス」では、監視・ペナルティの執行は警察が行う。しかしそうした機能は、本来ならその地域のコミュニティが代替しているはずだった。職住一致に近いようなコミュニティであれば、常に人の目が届き、隣近所の信頼も厚い。そうした地域では人の出入りが多くても、犯罪率は低くなる。
しかし「ゼロ・トレランス」は、公権力がそうした機能を代行する。それまでは監視されるものであったと同時に監視するものでもあった人々は、監視される側に回る。そこで醸造されるのは不安と不信である。

このような状況がさらに進展すると、3つ目の問題点が出てくる。あらゆる無秩序的事象を、犯罪の予兆として取り締まりはじめると、今度はその予兆の予兆を探し始めることになる。あらゆる潜在的危険性を、「リスク」として顕在化させようというのだ。だが、以前エントリで書いたが、リスクは潜在的であるからリスクなのだ。リスクをリスクとして顕在化させたとき、その可能性の外にまた新しいリスクが発生する。ゼロ・トレランスの徹底した執行は、こうした無限ループを引き起こしかねない。そしてそうしたループの先に行き着くのは、マイノリティに属する人間への暴力である。実際、ゼロ・トレランスによって治安の回復したアメリカでも、警官による黒人・ヒスパニック系への暴力事件が劇的に増えた。

さらに根本的な問題なのが4つ目の「恣意性」の問題だ。そもそも、何が「秩序的」で「正しく」、何が「無秩序的」で「正しくないこと」なのかの基準をどこに定めるかが、ゼロ・トレランスを執行する側の人間に委ねられてしまっている。ゼロ・トレランスは、悪そうな奴を見つけて捕まえる、というよりも、一つの秩序の基準を設定し、そこから「逸脱」したものを等しく罰するという発想に近い。そこにあるのは「犯罪者」ではなく「逸脱者」である。

結果に見合うコストなのか?


と、色々と問題点を挙げてきたが、要はそのコミュニティ内にあった「信頼」「自由」というものを、外部の「規律」が代替することのデメリット、と言えるのではないか。もちろん、そうした「信頼」「自由」がなくなってしまったからこそ、「規律」を導入するのだ、という場合も多々あろう。だがはたしてゼロ・トレランスで得られた結果が、その代償に見合うものだったのかどうか。なくなってしまった後では検証のしようがないが、少なくとも上記のような観点から見る限り、そのコストはかなり大きいものだと言えるのではないか。

*1:参考文献 酒井隆史 「自由論ー現在性の系譜学」 青土社 2001

*2:http://www.jri.co.jp/consul/column/data/330-azuma.html に、詳しくは無いが示唆的なことが書いてある