絶倫ファクトリー

生産性が高い

思想地図シンポジウム『公共性とエリート主義』

雑感

昨日、新宿紀伊国屋サザンシアターで行われた思想地図シンポジウム『公共性とエリート主義』を見に行ってきた。今回のパネリスト?は宮台真司東浩紀北田暁大姜尚中鈴木謙介である。

詳しい内容については他で上がっているだろうし書籍になる(はず)なので書かない。自分の取ったメモの整理程度のことをするにとどめておく。

twitterにも書いたのだが、一言で表すとこのようになる。「子供(鈴木・東)にムキになって食って掛かる大人(宮台)をセクシーボイスで穏やかにまとめる素敵なおじ様(姜)。横で見ている青年(北田)」

まず初めに北田暁大の調査に基づいた問題提起と言うか基調講演のようなものがあり、その中で「前回のシンポジウムの問題意識を引き継いだ上で、公共性と個人とを結びつけるためのナショナリズムというものをどう考えていくか」という話がなされたのだが、その流れはその後一切汲み取られることなく議論は二転三転していった。今思えばここら辺がちょっともったいなかったかな、と思う。

姜尚中

このメンバーを見たとき姜は明らかに浮いているように見えたし、本人も冒頭で何喋れば良いの俺ということを言っていたのだが、振り返ってみると彼はゆがんだ方向に白熱した議論を冷ます冷却材になっていた気がする。

全体の論点としては、社会(公共性)に個人がコミットするためのモチベーションをどう作るのかそこにエリートはどう関わってくるのか?というのがメインであった。
その中で一番素朴だったのは姜だった。彼が抱くのは天皇を虚焦点とした結社型の個人、平たく言えばトクヴィル主義である。僕は姜の言説にほとんど触れたことが無いのでそれがどういうパフォーマティブな意味を持つのは分からないが、コンスタティブに見れば非常にスタンダードで分かりやすい意見だった。

宮台真司

もちろん、日本でトクヴィル主義的なものが全うに機能している(と思われている)ならばこのようなシンポジウムは開かれないわけで、姜が喋るたびに大きく頷いていた宮台はこれの亜種というか改良型トクヴィル主義、「第三の道」主義を前面に出していく。これは社会に個人がコミットするための動機付けに使えるリソースが、日本の場合は欧米に比べ極端に少ない。放っておけば社会はどんどん薄くなり、意味づけの弱いものになっていく。それは仕方が無い。「だからこそ」国家が社会の厚みを増すような手立てをする、社会が国家から自立できるよう、意味のあるものにしていくのが必要だ、というのが彼の話。正直今まで言ってたことそのまんまなので彼の話単体にそこまで新しさは無かったが、それに対する周囲の反応は興味深かった。

鈴木謙介

鈴木謙介トクヴィル主義的なものは日本には会社くらいしかなかった、それも今や失われている、としてそうしたものを否定。そして宮台にどうやって社会の厚みなんか増すんだ無理に決まってんだろと食って掛かるがブチキレられる。彼の疑問も最もだし宮台もそれにスマートに答えたわけではないのだが、ただ鈴木の発言機会の問題もあってあまり彼は宮台に対するオルタナティブを提示できてはいなかった気がする。

東浩紀

そういう点で東浩紀は面白かったな、と思う。彼は姜のようなトクヴィル主義でもなければ宮台のようなエリートによる第三の道政策でも無い。<セカイ>と<個人>の間に緩衝材を設けよう、ということは端から疑ってかかる。彼が固有名詞を宮台と同じくらいにバンバン放っていたので(そして僕は宮台の言説に関する知識よりも東の言説に関する知識がかなり少ない)ので細かい議論は思想地図の刊行を待つとして、大雑把なことを言えば彼は個別最適がそのまま全体最適になるようなシステムを作れ、という話をする。エリートによる公共性の立ち上げ、という図式を出(したと思われる)す宮台とは好対照を描いているように見える。ただもちろん宮台からは「そのシステム誰が作るの?エリートじゃない?」という突っ込みは当然入る。これに東がどう答えていたかはちょっと記憶にも記録にも残っていないので分からないのだが、あまり明確な答えは出ていなかった気がする。*1これもまた話としては以前から変わっていなかったのだが、彼が執拗に宮台と自分との差異を作ろうとしようとするのに対し、宮台は上手く東のロジックを自らの理論の中に抱合してしまおうという意図が見えたような気がする。深読みかもしれないが。ここら辺の掛け合いが面白く、またハラハラさせられた。結構宮台は東にマジギレしてたのではないかと思ったが、終わった後二人で笑ってたのでまぁ何だかんだんでプロレスだよなぁとは思った。

北田暁大

もしこれがプロレスだとしたら、可哀相なのは勝った奴でも負けた奴でもなくリングに上がれなかった奴である。北田は後半宮台vs東・鈴木の対立に全く入り込めず、最後の方に「皆エリートと大衆のことしか見て無いけど中間層が結構居るんじゃないか、そこら辺をどう扱うのかが重要なんじゃないか」という至極真っ当でかなり大事そうな話をして終わってしまった。これかなり個人的には膨らませて欲しかったのだけれど、面子的にはあまり膨らませづらかったのかもしれない。

とりあえず宮台と東がバンバン固有名詞を出して一応オマケ程度に解説が入るのだが、細かい議論は追えてなかった部分が多い。トクヴィル/ギデンズ/サイバーあずまん、この三項の対立がはっきりしたという印象が強かった。

*1:ただもちろんそれが国家の人間である必要はない、ということを東は言うだろう。事実鈴木謙介Googleの例を出していた

弱者の代弁者?

加藤智大は格差社会の代弁者ではない - the deconstruKction of right

秋葉原の事件に関してもう書くつもりはなかったのだけれど、一つだけ。
この上記リンクのエントリのコメント欄が荒れ気味なのがよく分からない。この事件に関して出たエントリの中ではかなり秀逸なものだと思うのだけれど。

まずid:naoya_fujita氏は事件の犯人のような派遣労働者を下に見ていたりなどしていない。それどころか彼のエントリの主眼はこの事件そのものですらない。これは事件を巡る言説に対する言説、メタ言説である。犯人とされる加藤智大がもし万が一貧困労働者の代弁者だとしたならば、彼の本来の標的であるエスタブリッシュ層はセキュリティを上げ(現状としてそういう傾向はある)、さらに勢いづいた赤木智弘のシンパみたいのがテロを起こすモチベーションになる。

だがそれは構造的におかしい、彼は代弁者ではない、彼を代弁者に仕立て上げてはならない、というロジックをid:naoya_fujitaは立てているのに、どうもコメント欄もブックマークコメントも誤読した捨て台詞が付いている印象を受ける。

ロスジェネ 創刊号

ロスジェネ 創刊号

「ロスジェネ」を読んだ。昨日はこの雑誌についてのエントリを書こうと思っていたのだが、事件のせいで吹っ飛んでしまった。だが上記のエントリを読んで、ふと思い出したのだ。冒頭の対談、ロスジェネ編集長の浅尾氏と「ひっぱたきたい」でおなじみの赤木氏の対談を。

浅尾 しかしひっぱたく相手は丸山眞男ではなくて、ブッシュと福田と御手洗だと。赤木さんは、僕のこの意見に対してはどうなんですか。

赤木 別にそれでもいいんですけど、だからといって正社員を容認できないと思うんです。そのへんはまとめて自分たちの敵であると。正社員を敵とみなさなきゃいけないような状況になってしまっている。

浅尾 主敵は正社員の方が近いって感じ。

赤木 そうですね。やっぱり近さがあるが故に憎たらしいし、近さはまた連帯の可能性になっていきますから、その部分をどうにかしないとどうしようもない。
(p.15)

自分は正社員が敵だと言いますけど、正社員は非正規から恨まれていることを知りながらも、正社員は非正規の側と連帯しなきゃいけないと思うんです。恨むなとか、ひっぱたくなとか言われると、恨まれようがひっぱたかれようが連帯が必要なら一緒にたたかったらいいじゃないかと、すごく思うのです。
(p.29)

エスタブリッシュな富裕層より手近な正社員層からぶんどる。これは上記のエントリで指摘されていた帰結である。それはエスタブリッシュ層を打倒する「革命」でも、宇宙人との「戦争」でもない。単なる内戦である。
「社会的弱者」による殺戮を勝手に「テロ」に仕立て上げ、「代弁者」「具現者」などと偶像化することの帰結は、まさにこの文章に表れているのではないか。敵意を向けられ脅されて、なおその相手と連帯しようと思う人などいるのだろうか?憎悪の連鎖、などと手垢の付いたクリシェで済ましたくは無いが、しかしそういう流れしか浮かんでこない。

加藤智大にせよ赤木智弘にせよ、苦しむ人の代弁者ではない。代弁者にしてはいけない。結果苦しむ人が苦しむ人を傷つける内戦モードに突入する。笑うのは山の頂上でその様子を伺う人たちだけだ。

なぜ「秋葉原」なのか―スペクタクル化という逆流

<ユートピア>の脱走者/破壊者

朝日新聞デジタル:どんなコンテンツをお探しですか?

8日午後0時30分ごろ、東京都千代田区外神田3丁目の路上で、車が通行人らをはねた後、車から降りてきた男1人が通行人らに刃物で次々に切りつけた。東京消防庁によるとけが人が17人(男性14人、女性3人)おり、警視庁によるとけが人には警察官(53)も含まれる。このうち心肺停止状態の人も5人程度いるという。

現時点で6人の死亡が確認されている。(書き始めたときは3人だったのだが、次第に増えた。ご冥福をお祈りいたします。)

犯人は逮捕されたが詳細な動機は分かっていない。当初暴力団員と名乗っていたらしいが、後に撤回された。一部報道では「生活に疲れてやった」と述べているらしい。奇しくも今日は7年前、付属池田小で宅間守が起こした事件を起こした日のようだ。

宅間守についてはこのエントリの後半に書いたのだが、今回の犯人も似たような印象を受ける。彼もまた自分の住んでいた生活空間を抜け出し、秋葉原という<ユートピア>を破壊しにきたのかもしれない。彼の生活空間は不全を起こし、しかし世界の全体性=システムにはアクセスできなかった。自分の周りの社会を変える事が出来なかった。そのため「脱社会的存在」になるしかなかった。さらにそれだけでは飽き足らず、<ユートピア>を破壊する必要があった。

何故秋葉原なのか?

気になるのは、何故秋葉原なのか、と言う点だ。日曜の昼下がり、東京で人がいそうな場所はいくらでもある。渋谷、新宿、池袋。むしろこれらの都市の方が秋葉原の歩行者天国より人はいるかもしれない。

北田やその他の都市論を呼び出すと、今、こうした大きな都市は「渋谷」「新宿」という記号によって万人に共通のイメージを喚起する力はなくなっているという。渋谷と聞いて人々がある程度共通のイメージを思い起こすのではないし、またそうしたイメージに基づいて渋谷を訪れているのではない。あの店のこの服が欲しい、あのカフェに行きたい、そうした人とモノと情報のアーカイブとして認識されている。そしてそこを訪れる人々のモチベーションとなっているのは、記号ではなくコミュニケーションである。下北沢や裏原宿のように、単なる消費者と店員という関係を越えたコミュニケーションに期待する例がその最たるものだ。こうした例は渋谷などでも起きている。

「東京から考える」再考―都市を考えるためのマトリックス - No Hedge!

このエントリで使った図式でいえば、かつてスペクタクル志向空間であった多くの東京の都市、共通の記号を人々に喚起させる都市であったのが、コミュニケーション志向空間へと移動している。記号的なイメージによって人を集める都市から、個別のコミュニケーションを期待する都市へと変わっている。昨日聞いた話では代官山などもそうした例であるようだ。

f:id:klov:20080527020847j:image

ところで秋葉原は、そうした流れとは逆の方向に移動している。従来は種々のオタクと呼ばれる人々がコミュニケーションを志向して集う空間であったのが、近年のメディアの露出を通して秋葉原という都市に共通の記号を見出し、スペクタクル志向空間になっている。よくオタクが「俺たちの知っている秋葉原は死んだ…!」と嘆くのは、こうしたコミュニケーション志向空間から、メディアを通じて喚起されるスペクタクル志向空間に変わったことを指すのではないか。

今回の事件の犯人がどのような基準で惨劇の場を秋葉原にしたのかは分からない。が、車で突っ込んでナイフを振り回せばとりあえず人が大量に殺せそうな場所=大都市という連想で秋葉原を選んだのならば、やはり秋葉原という都市は万人に共通のイメージを喚起しうる、スペクタクル志向空間になっているという一つの例なのかもしれない。

(追記:)犯人が静岡から来た、というのもそれが事実なら重要かもしれない。地方から見た「東京」的な都市のイメージの供給源が渋谷などから秋葉原にシフトしているのだろうか。

iPhone国内発売について気になる二つのこと

昨日の夕方あたりからネットはあっちもこっちもiPhoneとソフトバンクの文字で溢れている。個人的にiPod周りに関してはジョブズの商法に踊らされまくっているので、iPhoneも初めて見た瞬間からわくわくしていた。…自分が今使っているキャリアはドコモだったのでちょっと残念だったが。

既にiPhone関係の記事はソフトバンクとの契約発表以前から多く出ているのでここで細かい話はしない。個人的に気になるのは以下の二点。

  • 今回のソフトバンクとの契約は独占契約なのか?(ドコモやその他のキャリアで販売される可能性は?)
  • ソフトバンクはiPhoneをどのように売るつもりなのか?

ソフトバンクとの契約は独占契約なのか?

これについては時間が経てば分かることなので単なる予想ゲームでしかないけれど。冒頭で引用したITmediaの記事では「他のキャリアから販売される可能性は低い」としている。

ただ国内で複数のキャリアがiPhone販売を手がけているケースはゼロではない。

VodafoneとTelecom Italia、イタリアでiPhoneを発売へ - CNET Japan

イタリアではVodafoneとTelecom Italiaの二社が平行してiPhoneを取り扱っている。
ただしこれには裏というか、条件がついているようだ。

iPhone、イタリアでは独占販売権方式を取りやめる可能性も - CNET Japan

要するに同報道は、AppleがTelecom Italyを通じて、3GモデルのiPhone発売の準備を計画しているものの、Telecom Italyは、iPhoneユーザーのデータ通信利用料金分配を、Appleに支払う必要がなく、独占的に販売権を取得する契約を結ぶのでもないとしている。その結果として、iPhoneの販売価格は、他の国よりも高くなりそうだ。

これまでに、AppleiPhone販売に関して、キャリア4社と独占契約を結ぶに至っている。米国ではAT&T、英国ではO2、ドイツではT -Mobile、フランスではOrangeとである。iPhoneを独占的に販売する権利の見返りとして、これらのキャリアはAppleに対して、その販売契約期間中はデータ通信利用料金分配を支払うことになっており、AT&Tのケースだと、1ユーザーにつき毎月およそ18ドルが、月額利用料分配契約として支払われていると見られる。

要は国内でiPhoneを独占するにはインセンティブ契約を行う必要があるらしい。Appleへの「上納金」を毎月払う必要がある。

朝日新聞の記事によると、Appleがドコモではなくソフトバンクを選んだ理由としてそのインセンティブ契約でソフトバンクが折れたのではないか、という憶測が流れている。

朝日新聞デジタル:どんなコンテンツをお探しですか?

iPhoneをめぐっては、ソフトバンクとNTTドコモが、アップルと水面下で交渉。各国で最大手から発売されたため、ドコモ優位との見方もあった。通信料収入の一部をアップルに納める仕組みがあり、「ドコモが難色を示し、ソフトバンクが折り合った」との見方がある。

ただソフトバンク契約以前に流れていた観測では、「ドコモ優勢」とされていた理由の一つがこの「上納金」であったようだ。

Expired

ドコモとソフトバンクはそれぞれアップルと水面下での交渉を重ねているとみられるが、前出のアナリストは「最大のポイントは“上納金問題”だろう」と推測する。

 これは、アイフォンの利用者が毎月携帯電話会社に支払う使用料のうち、一定額をアップルに支払うという、業界では異例の契約だ。アップルは公にしていないが、米投資銀行のアナリストは「アイフォンの利用者1人あたり毎月18ドル(約2000円)が、AT&Tからアップルの懐に入る」と試算している。

 ちなみに07年7−9月期の顧客1人当たりの月の収入はドコモが6550円、ソフトバンクは4800円。米国と同条件だと仮定すると、ドコモで約3割、ソフトバンクで約4割を持って行かれる計算だ。

 アイフォンの契約期間の2年間の合計は432ドル(約4万7500円)。携帯電話会社が販売代理店に支払う販売奨励金は1台当たり平均3万円前後だが、それと比べても高い。

データが古い上にアメリカと同じ条件、というのも考えづらいのでそのまま参考には出来ないが、一人当たりの月の収入がソフトバンクの方が少ないとすれば、現状の料金プランとはまったく別の契約方法になるだろう。

インセンティブ契約にソフトバンクが折れた、という観測が事実ならば、おそらくiPhoneはソフトバンクの独占になる。

ソフトバンクはiPhoneをどう売るのか?

この「どんでん返し」ともいえる逆転劇を見せてiPhoneの販売権をもぎ取ったソフトバンクだが、彼らはこの高性能なおもちゃを誰にどのように売るつもりなのだろう?

携帯電話シェアの推移

現在のソフトバンクのシェアは約2割。ドコモが約5割を占めている。
残念ながら日本国内における各キャリアの世代別のシェアを記したデータが手に入らなかったので、完全な憶測になるが、伸び悩んでいるとは言えドコモは以前30〜40代の社会人のシェアの多くを握っているのではないかと思われる。若い世代に関しては、KDDIとともに近年追撃をしている。
ターゲットを決めずに宣伝しまくるだけでは自分で自分の足を食うことになりかねない。ドコモが持っている中堅世代の社会人のシェアを奪うのか、若い世代の顧客競争でKDDIを蹴落とすのに使うのか。

そもそもiPhoneの機能は明らかに既存の日本の携帯電話と異なる。そのためドコモ・KDDI・ソフトバンクという既存のマーケットではなく、Willcomイーモバイルなどのスマートフォン市場での競争になるという見方もある。

エラー:So-netブログ

iPhoneは日本ドメステック携帯の代替にはなり得ないし、別に日本ドメステックな機能は不要。今持っている1台目にやらせればいい。ワンセグとかモバイルSuicaは2セットいらないし。
だから、e-mobileとかWillcom、SBのホワイトプランの二台目としての新規購入の市場とかち合うと予想してる。
特に、携帯各社とも実質的に2年縛りになっているので、今年中に機種変出来る人以外は必然的に2台目になってしまうよね。

また若い世代に対しての売り方としては、「iPod付きの携帯、欲しくないですか?」というものが考えられる。ただこれもiPod touchがそこまで若い世代への訴求力を持っていなかったことを考えると、「キャズムを越える」のは難しいかもしれない。

Thirのノート

PCにあまり詳しくない方々は、iPodというと四角い図体に二重丸(◎)がくっついた個体だと認識してたりする。実際iPod touchの知名度はなかなか高くなく、「それ本当にiPodなの?」と聞かれることもしばしば。だから、「この携帯はiPod機能がついていますよ!」と言っても、「え、でも◎ないじゃん」と言われかねない。「えーマジでそんなことがあんの?お前の妄想じゃねーの?」という人は、とりあえずソフマップとかビックカメラとかヨドバシカメラで短期バイトすれば分かる。◎はiPodの象徴なんです。

加えて先のインセンティブ契約がネックになり、おそらく必要な料金は安くない。金銭的にも若い世代には訴求力を持たないと思われる。
そうなるとやはり上記の社会人が二代目に持つ携帯電話、として売り込んでいくのが現実的なのだろう。しかしもしこれが独占契約だったとするならば、せっかく高いインセンティブ契約をしたのだから、未だ発展途上のスマートフォン市場に斬ってかかるだけでは勿体無い。現行のバランスを一気に崩せるかもしれない機会なのだ。
既に国内でソフトバンクが発売する、というたった二行のプレスリリースが流れただけで、この手のガジェットに興味を持つ人々は相当食いついている。そしてそういう人々にまず第一波として訴求した上で、第二派としてその周囲の人間に広まっていけば、ドコモが持っている(であろう)30〜40代のシェアにかなり食い込むことが出来るのではないか。

「昭和三十年代主義」という夢想、もしくは勝ち逃げの思想

昭和30年代vsポストモダン―定常型社会への回帰

昭和三十年代主義―もう成長しない日本

昭和三十年代主義―もう成長しない日本


オビ裏には「日本人が昭和レトロ・ブームにハマったのには理由があった!」と煽ってあるが、この本においては昭和30年代レトロブームの分析は単なる入り口でしかない。基本的にこの本は様々な映画、小説をアナロジーにした「昭和30年代的社会/個人」と、「ポストモダン的社会/個人」*1の対立で論が進んでいく。

昭和30年的社会/個人

社会全体のスケールが小さく、人々は自分が認知出来る範囲の生活空間の中だけで生きていた。
不便ではあったが、ゆえに人々は様々な「必要」に縛られ、その「必要」が人々を団結させていた。

  • 「Always」の鈴木オートの夫婦
  • 「いつでも夢を」における勝利・ひかる
  • 「模倣犯」における有馬義男・高井和明
  • 「明日があるさ The Movie」における浜田
  • 木更津キャッツアイ」における主要メンバー五人

ポストモダン的社会/個人(著者は「ポストモダン的」という言葉は直接は使っていない)

  • 進歩・変化が尊ばれる社会。常に新しいもの・他と違うものを志向する。

技術革新に拠って人々は「必要」から解放され、消費のメカニズムに組み込まれた。
価値は相対化され、あちこちで価値の転倒が引き起こされる。

  • 「続・Always」における成城のお嬢様、美加
  • 「模倣犯」におけるピース、浩美、岸田明美
  • 「明日があるさ The Movie」における望月(柳葉)


友達や家族、恋人、そうした自分が認知できる範囲内での<普通>を志向する昭和30年代的個人。
そうした「ジモト」的な束縛から離れ、メディアをベースにした消費行動に踊らされるポストモダン的個人。

著者は、ポストモダン的な社会は成長を前提にして成立しているが、もはや社会全体での成長など見込めず、ゼロ成長を前提にした社会を作るべきだ、と述べている。そして現在盛り上がっている「ワープア論壇」的な労働運動や、「ジモト志向」な若者はそうした身の回りの小さなスケールの社会を実りあるものにしようという動きであるともしている。
また鈴木謙介の「カーニヴァル化する社会」を援用しつつ、定常型社会には生活にメリハリをつけるための「祝祭」が必要であり、ヨサコイ祭りやワールドカップの熱狂はそうした「ハレ」の表出であるとしている。

著者自身は昭和30年代と言う時代そのものは「大嫌い」らしい。不便で不潔で自由がなかった、と。しかし成長を前提にした社会が崩れつつある今、大きなスケールの成長を諦めて、身の回りの小さなスケールの充実を求める社会=昭和30年代的社会に方向転換すべきである、と述べている。

「消費者」という印籠を捨てて小さな社会に戻れ―という勝ち逃げ宣言

著者の主張をミクロレベルで見るとこのように整理することも出来る。個人が生きる意味を家族や友達といった「小さな成熟」の中に求め、変わらない小さな社会の中でカーニヴァルを楽しめ、と。今の我々は収まるべき小さな社会がなくなってしまい、「自己実現」という名で常に自分で自分をドライブさせる必要に迫られていると。それでは辛かろう、宮台真司の「内在系」とか無理じゃんよ、まったり生きてたはずの女子高生もメンヘラっちゃたし。素直にフツーの生活に収まってこうよ、と。
確かにそれはそのとおりで、「定常型社会」などというものが容易に作り出せたら苦労はしない。しかし「カーニヴァル」にしろ、<ハレ/ケ>の区別を包含する<変わらない日常>というフレームが必要である。それがなくなってしまうとまさにカーニヴァルは「暴走」してしまう。

そして著者の指摘どおり、「必要」に縛られた「小さな社会」「変わらない日常」は、昭和30年代の日本人が抱き続けてきた進歩・成長という夢がついに結実した結果、破壊された。それは端的に資本主義の成功であり、消費社会の進展である。そしてその流れ自体は原理的にも社会的にも否定できるものではない。資本主義である以上消費社会の外には出られない。個人の生活はますます文化的な生活と動物的な生活の二層が分断され、前者の<ライフスタイル>はより一層複雑さと新しさと差異を求め、後者の<生活>はより一層同じものをより安く求める。「消費者」という印籠の下、それらは交わることなく逆のベクトルを向きながら伸張する。昭和30年代にあっては、それが一つの空間で交わり収まっていたのだろう。だが資本主義は自己駆動する。消費もまた同じ。今更皆せーので「消費者」の印籠を手放すなどもってのほかである。依然として印籠は有効であり、進歩と変化の「大きな社会」への欲望は残り、身の回りの生活を支える「小さな社会」との乖離は大きくなり続ける。「大きな社会」を志向するレールから外れた一部の人々は、<ジモトつながり>しか頼るものがなくなりババをひくハメになる。先月のエントリで何度もとりあげた新谷周平の論文も本書で言及されてはいたものの、ストリートダンサーの集団内におけるメリット=一般互酬性しか扱っておらず、彼らが自分たちのカルチャー=ジモトつながりへの傾倒によって現状の生活に縛り付けられ、上昇のためのラダーを上れないデッドロックに嵌っていることは完全スルーである。
それに今の若い世代から見れば、今更五十、六十のおっさんどもに「ごめん僕らが若い頃抱いていた夢は間違ってたようなのでナシね」とか言われても、あんたらそういうの勝ち逃げって言うんだよとしか思えないだろう。

小さくなり続けるパイを奪い合うなら、パイがのっている皿も縮めてしまえばいいじゃないか。それなら身の丈にあう。そう著者は言いたいのかもしれないが、例えそれが本当に適当な策だったとしても、人々は決してそれを許さない。老いたる者は夢の続きを見ようとイスに座り続け、若い者は下手に夢を見させたツケを払ってもらおうとする。後者は前者の年金を目減りさせ、前者は後者の収入を上げさせない。クロスカウンターが見事にばっちり決まっている。

そうした「詰み」の状況だからこそ、クロスカウンターの決まった今だからこそ、「昭和30年代主義」のような小さな社会の復権を目指す方策は輝いて見える。だが先に拳を下げた者は殴り倒されて死ぬ。お互い同時に拳を下げて、社会全体が変革するような機会が来るのだろうか? 非常に困難な作業に思える。

*1:ポストモダン的という言葉は著者は使っていない

彼は誰に「話しかけている」のか―<見る―見られる>の関係性が作り出す共犯関係

Infoseek ニュース - ニュース速報、芸能スクープなど満載

最近ワイドショーや新聞を騒がせているこの事件だが、ここまで大きな扱いをされているのは、事件の猟奇性のほかに犯人が実に「マスメディア的」なタイプの人間であることに由来するのではないか。

一方で、星島はマスコミ取材にも積極的に応じた。事件に動揺して他の住民は口が重いのに、星島だけは冗舌だった。事件翌日の19日には報道陣に30分以上も対応し、警察の捜査状況や東城さん姉妹の印象だとかをペチャクチャと話していた。

彼が「ペチャクチャ」と話していた相手は、果たして誰だったのか。テレビカメラの向こうにいる、我々である。テレビの向こうで自分のことを見(てい)るであろう、「マス」である。我々はテレビに映る彼の姿を見ることで、彼と無言の「会話」をしている。彼の姿をテレビを通じて見ることは、彼が想定した「会話」の相手として、彼の用意したフレームの中にお行儀よく収まることを意味する。

また彼は「模範的」市民も華麗に演じている。

その上、マンション周辺で警戒に当たる警察官に「おはようございます」「ご苦労さまです」とマメに声を掛け、そうした姿も不審に思われていた。

これほどまでに「マスメディア」的な規律訓練の行き届いた人間はそういない。警察に進んで協力し、好意的な「模範的」市民であり、テレビを通して「大衆」と対話する。マスメディアを介した<見る―見られる>という関係性を余すところ無く内面化した人間である。
そしてこのマスメディア的な意味での「優等生」を作り出すのは、無論マスメディアを通じて「見ること」への欲望を持った我々である。彼は我々に話しかけ、我々は彼に話しかける。彼は我々に対して振る舞い、我々は彼に対して振る舞う。この共犯関係は、マスメディアが今のままである限り、逃れられない。

ではこれがインターネットだったら? すぐに思い出されるの「くまぇり」なる放火犯が、自らのブログでその犯行を客観的事実として記していた事件だろう。

凍結されたアカウント

江東の事件では、犯人と視聴者の間にある共犯関係のほかに、マスメディアそのものと犯人の間にも共犯関係があった。彼はマスメディアがこの画像を使うだろうと考えて喋り、またマスメディアもその先読みに応えた。この二重の共犯関係によって彼と我々との「対話」は成り立っていた。
放火事件の方では、マスメディアと犯人との共犯関係はない。それを介さずとも彼女はブログを使って我々と「対話」できた。ブログを使うことで、<見る―見られる>の関係性を自らプロデュースできた。だが犯人が見る人間の欲望を先読みし、見られる者としての振る舞いを自ら規定するという図式は、マスメディアを使おうがブログを使おうが変わらない。むしろ後者の方が敷居が下がったと言える。

テレビ、新聞、雑誌、ブログ、SNS、ミニブログ、動画サイト……見る者と見られる者の関係を作り出すメディアはこれらからも増え続ける。だがどのように形を変えようとも、我々は見ることの欲望と見られることの欲望が作り出す共犯関係からは逃れられない。インターネットの普及で様々なことが「変わった/変わる」といわれる中で、僕個人は「では何が変わらないのか」を見ていきたいと考えているのだが、これもまたそうした変わらぬことのうちの一つなのだろう。

デッドエンド・ジョブと若者―「ワープア論壇」の踏み絵

昨年度ゼミでお世話になった先生の文章がはてブでちょっと話題になった。

五十嵐泰正「「ババ抜きゲーム」は続くのか?――国内第三世界化と外国人労働者」

従来は家庭の中で女性に押し付けられていた再生産労働が、マーケットに委託され低賃金かつ他の職業にステップアップする「ラダー」の無いデッドエンド・ジョブとして存在している。そしてこのデッドエンド・ジョブを誰が引き受けるのか、誰が「ババ」を引くのかという問題が日本でも顕在化している。
外国人にババを引かせるやり方は、フランスの暴動を見れば上手いやり方ではない。外国人を徹底して「外部化」し、ババを押し付け続けるのは非常に困難であり、数十年という時間をかけて徐々に「内部」と同化していくのは目に見えている。
この文章では一つの、というか消去法で残るのは「高齢者」であるという。だが恐らくこの国で回っている「ババ」は彼らが引くには少し荷が重過ぎるカードだろう。行政的にも遠い道のりだ。

本文ではババの押し付けという不毛な議論を最終的には保留しているが、あくまでデッドエンド・ジョブを誰に押し付けるのか、現状誰が押して付けられているのかという話は、しなければならない気がする。

前回のエントリで組み立てた、<生活>と<ライフスタイル>という上下構造をもう一度持ち出すと、消費社会の進展はこの構造的な分化の徹底を促す。衣食住など生活の基礎部分については、「同じものをより安く」という消費者の要求に答えるべく、ますます画一化・効率化の進んだシステムによって支えられていくだろう。一方でそれ以外の文化的な生活については、より一層の差異化と複雑化が求められる。再生産労働によって担われている<生活>と、その上に成り立つ<ライフスタイル>は、消費社会の進展に伴ってそれぞれの機能を特化させ、ますます逆のベクトルへと伸張していく。
デッドエンド・ジョブはこの<生活>を支えるシステムの一歯車として、今後も必要であり続けるだろうしまたその数は増えるだろう。そして彼らの待遇改善という案は社会全体のパイを増やす必要があり、それが出来るかどうかは景気の動向というきわめて不確定な要素に拠らざるを得ない。

今のところこうしたデッドエンド・ジョブについているのは一部の外国人、一部の高齢者、そして一部の学歴の低い者である。

若者の労働と生活世界―彼らはどんな現実を生きているか

若者の労働と生活世界―彼らはどんな現実を生きているか

ここで学歴を出すとまた炎上しそうな感はあるが、前回も紹介した本田由紀編のこの本に載る新谷周平の論文によれば、「ジモト」にたまりラダーの無いジョブを転々としながら暮らす若者の多くは、学校で規律訓練に失敗した者である。学歴社会の崩壊が叫ばれて久しいが、あれはどうも学歴というリソースの価値が社会全体で相対化されただけの話であって、例えば東大卒の人間と高卒の人間が同じように扱われるといったフラットな世界になったというわけではない。全体が地盤沈下しただけであって、まさに「戦争でも起きない限り」、そのようなフラットな社会はそうそう来ないだろう。学歴というリソースの無い者は依然として、いや以前にも増してラダーの無い、デッドエンド・ジョブに就かざるを得ない状況に陥っている。
さらに悲惨なのは、新谷論文を見るとそうしたデッドエンド・ジョブについている若者が自分たちの生活形式を比較的肯定していることだ。彼らは規律訓練から外れた「自由」な生活を送ること、そしてそうした生活を送る仲間がいる状態を一つのカルチャーとして感じ取っており、彼らのアイデンティティの拠り所となっている。彼らの自分たちの生活に対するメンタリティと、実際の生活様式がサーキットしている。片方がもう片方をお互いに承認しあうのだ。現状に満足する循環構造が出来上がっており、そもそもデッドエンド・ジョブから抜け出す必要性を感じることが出来ない。

本来、社会の流動化は既得権益を掘り崩し、それまで社会階層的に下位にいた者も上位を狙えるようなチャンス=ラダーを生み出す。そういう意味で、社会の流動化が徹底されればそれはそれでデッドエンド・ジョブに就くような人々にとっても望ましい傾向であるとも言える。しかし実際にこの国に発生している流動化は、どうも同じ階層の中で行き来する流動性であって、ステップアップのためのラダーを架けるような流動性ではない気がする。

若者の話に限って言えば、解決の方策は二つある。ひとつは規律訓練の徹底。もう一つは規律訓練の有無に拠らない、流動化の徹底によるステップアップのためのラダーの確保である。しかしそもそもこの話の起点となった「誰にババを押し付けるのか?」という議論に戻れば、解決の必要性そのものが相対化される。彼らは仲間と過ごし彼らの文化を肯定することで自らのデッドエンドな境遇を肯定している。ならば彼らの幸せな世界をわざわざ外側から壊すこともあるまい。そのままでいてくれ、と。

社会学的なことを言えば、そうした状況は傍観して済むものではない。「彼らの持つ『文化』がその生活を規定し、またその生活が『文化』を規定している。そして彼らは社会から『疎外』されているのだ!」などと言えばあっという間にお手軽サヨクの出来上がりである。だがそもそも彼らがその状況を望んでいるとすれば? 少なくとも「疎外」などとは感じていないとすれば? そして黙っていれば彼らに「ババ」を押してつけることができるとすれば? 我々はその循環に彼らを留めておくという誘惑に勝つことが出来るのだろうか?

誰がババを引くのか、という問題をここでも一旦留保するなら、昨今盛り上がっている「ワーキングプア論壇」なるものは、今現在実際に苦しみの声を上げている者だけでなく、気づかぬうちにババを引きそしてそのことを不満に思わぬ人々の目に、外の世界を見せることも必要なのではないか。寝た子は起こさぬほうが社会にとっても彼らにとっても得じゃないか、という声を振り切り、自分たちの主義主張を貫くことが出来るのか。その「踏み絵」にこの問題はなる可能性がある。