絶倫ファクトリー

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デッドエンド・ジョブと若者―「ワープア論壇」の踏み絵

昨年度ゼミでお世話になった先生の文章がはてブでちょっと話題になった。

五十嵐泰正「「ババ抜きゲーム」は続くのか?――国内第三世界化と外国人労働者」

従来は家庭の中で女性に押し付けられていた再生産労働が、マーケットに委託され低賃金かつ他の職業にステップアップする「ラダー」の無いデッドエンド・ジョブとして存在している。そしてこのデッドエンド・ジョブを誰が引き受けるのか、誰が「ババ」を引くのかという問題が日本でも顕在化している。
外国人にババを引かせるやり方は、フランスの暴動を見れば上手いやり方ではない。外国人を徹底して「外部化」し、ババを押し付け続けるのは非常に困難であり、数十年という時間をかけて徐々に「内部」と同化していくのは目に見えている。
この文章では一つの、というか消去法で残るのは「高齢者」であるという。だが恐らくこの国で回っている「ババ」は彼らが引くには少し荷が重過ぎるカードだろう。行政的にも遠い道のりだ。

本文ではババの押し付けという不毛な議論を最終的には保留しているが、あくまでデッドエンド・ジョブを誰に押し付けるのか、現状誰が押して付けられているのかという話は、しなければならない気がする。

前回のエントリで組み立てた、<生活>と<ライフスタイル>という上下構造をもう一度持ち出すと、消費社会の進展はこの構造的な分化の徹底を促す。衣食住など生活の基礎部分については、「同じものをより安く」という消費者の要求に答えるべく、ますます画一化・効率化の進んだシステムによって支えられていくだろう。一方でそれ以外の文化的な生活については、より一層の差異化と複雑化が求められる。再生産労働によって担われている<生活>と、その上に成り立つ<ライフスタイル>は、消費社会の進展に伴ってそれぞれの機能を特化させ、ますます逆のベクトルへと伸張していく。
デッドエンド・ジョブはこの<生活>を支えるシステムの一歯車として、今後も必要であり続けるだろうしまたその数は増えるだろう。そして彼らの待遇改善という案は社会全体のパイを増やす必要があり、それが出来るかどうかは景気の動向というきわめて不確定な要素に拠らざるを得ない。

今のところこうしたデッドエンド・ジョブについているのは一部の外国人、一部の高齢者、そして一部の学歴の低い者である。

若者の労働と生活世界―彼らはどんな現実を生きているか

若者の労働と生活世界―彼らはどんな現実を生きているか

ここで学歴を出すとまた炎上しそうな感はあるが、前回も紹介した本田由紀編のこの本に載る新谷周平の論文によれば、「ジモト」にたまりラダーの無いジョブを転々としながら暮らす若者の多くは、学校で規律訓練に失敗した者である。学歴社会の崩壊が叫ばれて久しいが、あれはどうも学歴というリソースの価値が社会全体で相対化されただけの話であって、例えば東大卒の人間と高卒の人間が同じように扱われるといったフラットな世界になったというわけではない。全体が地盤沈下しただけであって、まさに「戦争でも起きない限り」、そのようなフラットな社会はそうそう来ないだろう。学歴というリソースの無い者は依然として、いや以前にも増してラダーの無い、デッドエンド・ジョブに就かざるを得ない状況に陥っている。
さらに悲惨なのは、新谷論文を見るとそうしたデッドエンド・ジョブについている若者が自分たちの生活形式を比較的肯定していることだ。彼らは規律訓練から外れた「自由」な生活を送ること、そしてそうした生活を送る仲間がいる状態を一つのカルチャーとして感じ取っており、彼らのアイデンティティの拠り所となっている。彼らの自分たちの生活に対するメンタリティと、実際の生活様式がサーキットしている。片方がもう片方をお互いに承認しあうのだ。現状に満足する循環構造が出来上がっており、そもそもデッドエンド・ジョブから抜け出す必要性を感じることが出来ない。

本来、社会の流動化は既得権益を掘り崩し、それまで社会階層的に下位にいた者も上位を狙えるようなチャンス=ラダーを生み出す。そういう意味で、社会の流動化が徹底されればそれはそれでデッドエンド・ジョブに就くような人々にとっても望ましい傾向であるとも言える。しかし実際にこの国に発生している流動化は、どうも同じ階層の中で行き来する流動性であって、ステップアップのためのラダーを架けるような流動性ではない気がする。

若者の話に限って言えば、解決の方策は二つある。ひとつは規律訓練の徹底。もう一つは規律訓練の有無に拠らない、流動化の徹底によるステップアップのためのラダーの確保である。しかしそもそもこの話の起点となった「誰にババを押し付けるのか?」という議論に戻れば、解決の必要性そのものが相対化される。彼らは仲間と過ごし彼らの文化を肯定することで自らのデッドエンドな境遇を肯定している。ならば彼らの幸せな世界をわざわざ外側から壊すこともあるまい。そのままでいてくれ、と。

社会学的なことを言えば、そうした状況は傍観して済むものではない。「彼らの持つ『文化』がその生活を規定し、またその生活が『文化』を規定している。そして彼らは社会から『疎外』されているのだ!」などと言えばあっという間にお手軽サヨクの出来上がりである。だがそもそも彼らがその状況を望んでいるとすれば? 少なくとも「疎外」などとは感じていないとすれば? そして黙っていれば彼らに「ババ」を押してつけることができるとすれば? 我々はその循環に彼らを留めておくという誘惑に勝つことが出来るのだろうか?

誰がババを引くのか、という問題をここでも一旦留保するなら、昨今盛り上がっている「ワーキングプア論壇」なるものは、今現在実際に苦しみの声を上げている者だけでなく、気づかぬうちにババを引きそしてそのことを不満に思わぬ人々の目に、外の世界を見せることも必要なのではないか。寝た子は起こさぬほうが社会にとっても彼らにとっても得じゃないか、という声を振り切り、自分たちの主義主張を貫くことが出来るのか。その「踏み絵」にこの問題はなる可能性がある。